第487話 茶髪の中年は

文字数 1,457文字

 髪が伸びた。髭も剃らないようにしようと考えているらしい。(あ、どうでもいい?)
 もともと毛深くないから、みじめなヒゲになりそうだが。
 どんどん気持ち悪くなってやろうかと思っている。

 しかし、会社に行きたくないというのは、困った気持ちである。
 もともと、そんな積極的に行きたいと思っていた場所ではないのだが。

 8年前か、ここに初めて来て、あと1ヵ月で期間満了退社、という時期に、突然やはり行きたくなくなったことがあった。行ってしまえば何とかなるのだが、行くまでが、実につらかった。職場で、何があったというわけでもない。

 朝起きて会社に行こうとすると、もう気持ち悪くなって悲しくなって憂鬱になって、とてもじゃないけど行きたくない。
 夜、ああ、明日の朝が来る…と想像すると、いてもたってもいられなくなった。

 で、ぼくはその日の夜、東京の友達に電話をかけたのだ。彼はぼくのことをよく知っている人で、ぼくに本来の空虚な元気さもないことを数秒で察知し、「こっちから電話する」と言い、わざわざかけ直してくれた。

 といって、ぼくに何か話したいことが、それほどあったとは思えなかった。ただぼくは彼に電話をしたのだ。だが、自分の精神的窮状を、ぼくは彼に伝えたかったのは確かであった。
「オレ、我慢することに、慣れてない。学校に、行ってなかったからだよね。我慢する、訓練…」
 訓練、と口にした時、思いがけず自分の目から、涙がこぼれていた。
「訓練が、できてないんだよね、オレ。」
 電話越しに、彼が黙っていた。彼、Tさんとは、「学校に行かない進学ガイド」という本に紹介された、当時ぼくのやっていたサークルのようなものに、電話で問い合わせてきてくれたのがきっかけで知り合った。
 Tさんは学校というものに疑問をもちながら、不登校をすることもなく、京都の大学で天文学を勉強し、予備校で数学の講師をしている人である。
「疑問をもちながらも、学校に行くことができた人」(世の中にはそういう人が多勢いるのだろうけれど)、ぼくはTさんを、ちょっぴり羨ましく感じながら、かすかに嫉妬に似た情感も抱きつつ、一緒によく時間を共有していた仲だった。

 Tさんは、この電話の最中、とくに何もぼくに言わなかった。もともと、そんなに喋らない人である。うん、うん、とか、相槌を打ってくれる時間が多かった。だが、Tさんが、ぼくの言葉(何をしゃべっていたのか、もう忘れてしまったが)をチャンと聞いていて、いろんなことを考えている、という蠢動する気持ちは、電話越しに伝わってきていた。

 ともかくぼくは、ばかみたいに泣いていた。
 小1時間も、電話していただろうか。
 礼を言って電話を切ると、ぼくは、あっけらかんとしていた。鬱屈していた気持ち、アメーバがいっぱいいた胸の中、深い霧に満たされていた頭の中が、「しん」とした。
 翌朝、目が覚めて会社に行く前も、身体が実に軽かった。
 職場にいる人たちが、ぼくのざわめいた内面のことなど知る由もない。それも、助かったといえば、助かった。

 なぜぼくが今こんなことを書くのかといえば、できれば会社に行きたくないからである。明日も天気がいいみたいだし。
 だが、さっき、元妻からメールが。
「トモミ(ぼくの一人娘)が行きたい高校、私立になりそう」という主旨。
 吹奏楽をやっている娘は、全国大会に毎年出場している吹奏楽部をもつその高校に行きたがっているらしい。

 ぼくは、会社に行かなければならないらしい。
 当たり前といえば、当たり前のことなのだろう。が。
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