第717話 母の声
文字数 1,154文字
今日、久し振りに実家へ電話してみた。
父が出た。89歳である。
「ミツル(私の本名)です」と言っても、聞こえない。
「はい? もしもし?」
「ミツルです!」
「どちらさまですか、もしもし?」
「ミツルです!!」
お隣りさんにも余裕で聞こえるような大声を出して、やっと聞こえた。
「ああ、ミツルか。耳が遠くなっちゃっててねぇ、元気かい? 久し振りだねぇ」
母に代わる。
「あら、久し振りねぇ、元気ぃ?」
母は82歳である。
去年の春先に、「お母さん、ちょっとボケちゃってるんだ」と、兄から電話をもらった。
母は、父が、「浮気している」と思い込んでいたらしい。「お父さんがいない」と言っていたのだ。だが、兄が、部屋をのぞけば、父はチャンと居たのである。
そして母は、「どこの女と一緒にいたのよ、このバカヤロウ」というような、いつも、平常ならば、けっしてそんな言葉使いをしない母が、近所中に聞こえる大きな声で、父に詰め寄っていたらしい。
お祖母ちゃん、やめて、と、止めに入った孫さえ、突き飛ばしたらしい。
母は、もともと、鬱病であり、その薬を医者からもらって飲んではいた。
また、23年前に「腸閉塞」を患い、入院、手術をし、その薬も、23年間飲み続けていた。
その「薬」が、母の認知症に、混乱めいた激情をもたらしていたようでも、ある。
というのも、鬱病の薬を、軽めのものに、医者から処方されてから、あるいは腸閉塞後の23年間飲み続けた薬を飲まなくなって以来、そういった「父に詰め寄る」激情が、母からなくなったようだからだ。
今日、母と電話で話し、「風邪をひいたら、ネギシさんに行く」と言っていたのが気になった。
ネギシさんとは、近所にあった町医者なのだが、ぼくの子どもの頃にはすでに歳をとっていたような医者で、今も生きているとは、到底思えないのである。息子が後を継いだ話も聞いたことがない。
それ以外は、「ずっと休まず、勤めてるんでしょ?」という母の問いに、「ぼくは期間従業員で働いていたから、今年の2月で期間満了して辞めたんだ。で、3、4、5、6、7、と、働いてないのね。8月から、また働くんだけど」と、ぼくが答える。
母は、ああ、そうなのかい、みたいな、納得したように言う。「まぁ、自分の好きなことをするのがいいからねぇ。」
だが、その数秒後、「で、ずっと休まず、お勤めしてるんでしょ?」と訊いてくる。
ぼくはまた、「いや、3、4、5、6…」を言う。
この繰り返しの問答が、5回くらい繰り返されただけで、他に、取り立てて、妙なことは言われなかった。
ただ、母の声は、元気だった。父も元気そうな声だった。
その声を聞いて、ぼくはただ、ホッとした。
耳の遠い父、認知症の母、ふたり、ひとつの家で、生活、できてるんだ、と思った。
父が出た。89歳である。
「ミツル(私の本名)です」と言っても、聞こえない。
「はい? もしもし?」
「ミツルです!」
「どちらさまですか、もしもし?」
「ミツルです!!」
お隣りさんにも余裕で聞こえるような大声を出して、やっと聞こえた。
「ああ、ミツルか。耳が遠くなっちゃっててねぇ、元気かい? 久し振りだねぇ」
母に代わる。
「あら、久し振りねぇ、元気ぃ?」
母は82歳である。
去年の春先に、「お母さん、ちょっとボケちゃってるんだ」と、兄から電話をもらった。
母は、父が、「浮気している」と思い込んでいたらしい。「お父さんがいない」と言っていたのだ。だが、兄が、部屋をのぞけば、父はチャンと居たのである。
そして母は、「どこの女と一緒にいたのよ、このバカヤロウ」というような、いつも、平常ならば、けっしてそんな言葉使いをしない母が、近所中に聞こえる大きな声で、父に詰め寄っていたらしい。
お祖母ちゃん、やめて、と、止めに入った孫さえ、突き飛ばしたらしい。
母は、もともと、鬱病であり、その薬を医者からもらって飲んではいた。
また、23年前に「腸閉塞」を患い、入院、手術をし、その薬も、23年間飲み続けていた。
その「薬」が、母の認知症に、混乱めいた激情をもたらしていたようでも、ある。
というのも、鬱病の薬を、軽めのものに、医者から処方されてから、あるいは腸閉塞後の23年間飲み続けた薬を飲まなくなって以来、そういった「父に詰め寄る」激情が、母からなくなったようだからだ。
今日、母と電話で話し、「風邪をひいたら、ネギシさんに行く」と言っていたのが気になった。
ネギシさんとは、近所にあった町医者なのだが、ぼくの子どもの頃にはすでに歳をとっていたような医者で、今も生きているとは、到底思えないのである。息子が後を継いだ話も聞いたことがない。
それ以外は、「ずっと休まず、勤めてるんでしょ?」という母の問いに、「ぼくは期間従業員で働いていたから、今年の2月で期間満了して辞めたんだ。で、3、4、5、6、7、と、働いてないのね。8月から、また働くんだけど」と、ぼくが答える。
母は、ああ、そうなのかい、みたいな、納得したように言う。「まぁ、自分の好きなことをするのがいいからねぇ。」
だが、その数秒後、「で、ずっと休まず、お勤めしてるんでしょ?」と訊いてくる。
ぼくはまた、「いや、3、4、5、6…」を言う。
この繰り返しの問答が、5回くらい繰り返されただけで、他に、取り立てて、妙なことは言われなかった。
ただ、母の声は、元気だった。父も元気そうな声だった。
その声を聞いて、ぼくはただ、ホッとした。
耳の遠い父、認知症の母、ふたり、ひとつの家で、生活、できてるんだ、と思った。