第75話 日の丸、君が代って?

文字数 1,404文字

 だいぶ前から気になっていたことを書きたい。

 学校の教職員が、学校の式典、卒業とか入学の式上で、れいの「日の丸・君が代」の時間、椅子から立たないことで罰せられた、というニュースを見た。
 かなり前の話だったけど、さらにもっと以前から、「日の丸・君が代」を学校でやることに、何か問題があったようだ。

 最初にことわっておきたいのだが、私はたぶん非国民である。
 あまり、日本という国を、お世辞にも愛しているとは、言えない。
 なぜか。
 結局のところ、為政者、政治が、腐りきっていると感じるからだ。
 税金を取るのはいい。今月私は市県民税を払えないが、お金があれば払う。でも積極的に払いたくない。
 なぜか。
 見えないからだ。
 このカネの行き先が。

 話を戻す。
 石原都知事が「日の丸・君が代」に反対する教職員を積極的に罰したようだが、これはいかがなものだったのか。
 私の家人も、「日本人なんだから当然よ」と言っているが(なんで一緒になったのかね)、はたしてそうなのだろうか。

 成熟、という言葉を使おう。成熟した社会、という言葉を使いたい。
「私はこう考えているから、日の丸・君が代に反対だ。」そう意思表示する人間を、なぜ罰する必要があるのだろうか。
 皆が皆、同じ方向を向くなんていうことが、あり得るのだろうか、本心から。
 自分に嘘をついて、「皆がそうしているから」というだけで席を立つ人間よりも、自分に正直に、「私はこう感じるから、考えるから」と席を立たない人間のほうが、私は信じられる。

「それではまとまりがない」というのは、誰にとっての「まとまり」なのだろう。
 権力というものを、私は好まない。
 好めたら、楽のように感じるときはあるけれど。

 私のおもう「成熟した社会」とは、異論や反論のある者も、それを正統とする者も、「共に生きていく社会」である。
 異質だから罰する、皆と違うから排除する的なやり方には、「?」を禁じえない。

 そもそも学校というものの成り立ち自体が、「異質な者を排除する」システムを内包していたとおもう。いじめ、なんか、その発露だろう。
 社会が求める人間を育成するのが、学校の役目であるともおもう。
 かつての「共通一次試験」は、どんな教科も無難にこなせる人間を、つまりソツのない人間を、教育機関のいちばん上であるかのような大学は求めていたのだ。
 もっとさかのぼれば、兵隊をつくるために、あの「天皇陛下万歳!」といって死ねるために、学校教育の役割を果たしてきたのだ。

 もちろん、私の想像である。
 だから、そんな学校に携わる教職員が、「日の丸・君が代」に反対したならば、罰せられてしまうのも、無理からぬことかとおもうこともできる。

 私が小学生の低学年の頃、「将来、なりたい」作文に書いたのは、「用務員さん」だった。
 だが、正確にいえば、私は用務員さんになりたかったのではなかった。
 あの、いつも温和な表情で、ちゃんとまわりに気配りをして、柔らかに仕事をしていた、あの用務員さんのような「人間」になりたかったのだ。

 もう亡くなっているだろうし、目立たない生徒だった私のことを覚えてもいなかっただろう。
 だが私は、その顔も、姿も、鮮明に覚えている。
 今でも、あの容姿のままで町ですれ違ったなら、必ず声をかけられると思う。
 私に今も残っている数少ない学校の思い出は、形式的なものよりも、そこにいた、「ひと」なのだった。
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