第825話 人間的な生活(2)

文字数 786文字

 たとえば浮浪者と呼ばれる人が、「人間らしい生活をしたい」と言うなら、
「ああ、なんか『家』とかあって、毎日何か働いたりする、雇われの身で、ということなのかな」
 とか想像する。

 だが、たとえば浮浪者と呼ぶ側の人が、「あんなの人間じゃない(=らしくない)と言う時、ぼくは、「じゃ、どういうのが人間なんですか」と訊きたくなる。

「人間らしい」とは、あくまで、その人個人の理想なのだ。
 で、「人間らしくない」などと、誰かに向かって言う時、その相手、個人、すなわち人間を、「認めていない」、あるいは、認めたくないのだろう。

 しかし、どんなに認めたくなくても、その人は「いる」。
 で、その人は、間違いなく人間なのだ。

 ということは、どういうことか。

「路上生活者の方々を襲撃する事件、それも子どもが、たまに起きるけれど、大人社会が、彼らをまるで人間の屑、のように見ているからではないか。
 大人がそういう目、意識で彼らを見れば、子どもらの「襲撃」の、大きなバックボーン、まるで正当化できるではないか。」
 そんなことを書こうとしていたけど、やめた。

 ぼくにも、認めたくない、というような人間がいるからである。でも、やっぱり「いる」のだ、ぼくが認めようが認めまいが、そういう「人」が。

「人を、排除するような考え方、ダメ」とか言いながら、その自分に「認めたくない」人が存在するということは、排除しているような気が、してしまう。

 認める、って、受け容れることに通ずるように思う。
 いろんなこと、些細なこと、とんでもないイヤなヤツがいたとしても、そういうのを「受け容れて、自分の中に」、そこからでないと…

 ぼくにとっての「人間的な生活」。ぼくは生きている限り、人間的な生活をするのだと思う。たぶん。
(…急に、この「人間的生活」、この言葉から立ちのぼるウサン臭さのようなものを壊したくなってきたりして)
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