第337話 後悔の達人

文字数 1,774文字

 ぼくは小学校4年から、いわゆる不登校児となって、以来ほとんど学校に行かずに小・中学を卒業した。コンビニでバイトを始め、学校に行きたいと思い、定時制高校に入ったが、結局大検を受けて大学に行った。そしてその大学を辞めたわけだけど、「ああ、あの時、学校に行っていればよかった、卒業しておけばよかった」と、1度も思ったことがない。

 大学を辞めた後、予備校でチューターになったり進学塾の講師をやったり肉体労働をしたりスーパーの店員になったりしたけれど、職を転々と変えたことについても、まったく後悔していない。ちょっとはすればいいのに、と思う。
「後悔は、しないとダメですよ。進歩がないじゃないですか」という人もいたが、後悔のしようがないのだから仕方がない。
 よしタイムマシンで大学時代に、小・中学時代に戻ったとしても、ぼくはまったく同じことをするということが、分かるのだ。岩のように自信をもって言える。

 つまりぼくには、「頭ではこうしたほうがいい」と「分かって」いながら、実際にはそうしない『自我』というようなものが、身体の中枢にデンと巣くっていたのである。
 この、自分の意識下に、好む好まざるに関わらず『あってしまうもの』(それが自我のようなものだと思うのですが)、こいつの発現が、ぼくにとっては不登校というかたちであった。なぜぼくが学校が嫌いになったのか、自分でも理由がよく分からない。具体的に、そこまで嫌いになる理由などなかったのだ。

 頭が、「おい、右に行ったほうがいいぞ」と教えてくれても、身体は、左へ向いていたのである。好む好まざるに関わりなく。
 素直とかひねくれとか我儘とか、そういった類いのものではない。そういう身体であり、そういう足をもっていた、ということだ。かなりまわりに迷惑をかけてしまう足なので、ずいぶんぼくはこの足を恨んだ。これは断ち切るべき足だと思えてならなかった。だがズバリと切る勇気がなく、ずるずると生き続けてきて、その延長線上に今もあるというだけのような人生である。

 もしぼくが、あの時学校に行っていればよかったとか、卒業しておけばよかった、という後悔ができるとしたら、それはこのぼくの身体、ぼくの自我というようなものが、つまりぼくが在るということじたいが大きな間違いであり、ダメであり、まったく生きる価値などない人間であるということになる。
 もちろんぼくは間違っていて、ダメで、この世に生きるに値しない人間だ、と思えなくもない。いや、非常によくそう思う。そういう指摘をくれる人には、ごもっともです、すみませんでした、と頭を下げるしかない。いや実際、日常的にそう自分で感じることはしょっちゅうである。だが、心底からほんとうには、本心からは、そう思っていないのである。いよいよ救いようがなさそうな話だけど。

 よく絶望はする。なんでこういう自分なのか、と。だが、後悔することができないのだ。そりゃA店で268円で買った洗濯用洗剤が、B店で198円で売っていたのを目の当たりにした時なんか、後悔する。でも、生き方というか、こういう自分であるということにおいて、後悔ができないということだ。

 さて、だが家人は、ぼくと正反対の性質をもつひとで、実に「後悔の達人」とでもいうような才覚をもっている。あの時こうしておけばよかった、という場面に、(おそらく)星の数の半分くらい逢着していそうなのだ。
 自分が自分であることに、どうにもならないものをもっているというのが、その後悔の念を強く後押ししているようである。そしてそのこと、つまり自分が自分であることが不本意であるということを、あまり認めようとしていない。まず自分が自分であるということを自分で容認していかない限り、なかなかこの後悔性はアメーバみたいにどこへ行ってもくっついてくるように思える。

 ということを言うと、「わたしはあなたみたいに頭がよくないの」と言う。
 ぼくは頭なんかよくない。自信をもっていえるけれど、かなりバカである。だから、『足』に引っ張られてきたのだ。自分の足に引っ張られるほど、軽い頭だったのだ。
 自分の足の向く方向へ行けばいいんだよ。気の向く方じゃないよ、『足』だよ、『足』。
 そう言うものの、なかなか彼女には届かない。
 自我というものは、あってしまうものである。
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