第550話 出世欲

文字数 2,043文字

 今ぼくがエンジンに組み付けている部品のひとつに、「カップリング」というのがある。
 大きめお椀をさかさまにしたような形状をしているもので、流れてきたエンジンの、然るべき箇所に、それをぼくは「カポッ」と入れ、ナットで締める。
 今日、その「カポッ」と入れる際、然るべき箇所に、5mm弱の、細い緑色をした異物が付着していた。

 ぼくは呼び出し、ライン外のTさんが来た。
「こんなのが付いてます。」
 Tさんはそれを手に取り、「調べてくる」と言って、いなくなった。
 数分後、品質管理の人たちと思しき数名とともに、Tさんが戻ってきて、他に同じように異物が付いているエンジンがないか、見て回っていたようだった。

 Tさんが戻ってくる間に、もう1台、同じように異物が付いたエンジンが流れてきた。ライン外のMさんに言う。
「こういうの、あるんスよ。Tさんにさっき報告したんスけど。」
 Mさんはその異物を手に取り、軽く言った、
「あ、これは大丈夫だと思いますよ。よく見つけるね、さすがかめちゃん。」

 ずいぶん対処の仕方が違う。

 Tさんに言う。「Mさん、大丈夫だと思う、って言ってましたよ。」
「『思う』やろ。自分で判断しちゃあかんのや、こういうのは。」
 ぼくはTさんに同感した。
「またこういうのが流れてきたら、ライン止めていいから、呼び出して。」
「はい。」

 しばらくして、何か付着したものが流れてきた。ぼくは呼び出した。
 すると、まずMさんが来た。
「これ、流れてきたら、呼び出すよう、言われました。」ぼくは伝えた。
「誰に言われた?」Mさんが訊く。
「Tさん…」と言う時、Tさんが来た。
 問題ないよ、とぶっきらぼうにMさんが言う。
 Tさんはぼくに説明した。その異物の付着する箇所によって、良し悪しが決まるということで、これはOKということだった。

 MさんとTさんは、ぼくにとっては同じ上司であるが、敵対関係にある。
 仕事のやり方が違う、相性が合わない、そういう理由もある。
 しかし、こと「仕事」、同じエンジンをつくる職場にいて、不良品を客に流出させないための、注意すべき点くらいは、敵対しなくてもいいだろうと思う。

 ライン作業者として、「この人はどういうふうに仕事をしているか」という姿勢のようなものは、ライン外の上司たちを見ていて、よく分かる。
 Mさんははっきり言って自分の出世のことを第一に考えている。品質やらライン作業者のことは、二の次である。何か不良が出たとしても、下請けメーカーのせいにできる逃げ道があるし、ライン作業者のことなど考えもせずに、ラインをすごい勢いで闊歩してくる。多くの作業者が、Mさんと物理的に衝突している。

 出世欲があると見受けられるのは、何かラインで機械がトラブッて、もっと上の人たちが集まる時、誰よりも声高に、オーバーと思えるほどのアクションで、周囲に自分のパフォーマンスを見せつけるような言動をとる時だ。そういう場面を、何回も見た。

 もっとも、こういう出世欲をもっている人は、数多くいる。上に行けば行くほど、ラクだからだ。だが、こういう欲は、もちろん自分のことを第一に考えてのことであり、客や品質のことなど、残念ながら二の次三の次となる。
 さらに困ったことに、そういう人が、実際に上に行ってしまうらしいのだ。

 ぼくとしては、ちゃんと作業者のことを考え、エンジンのことを考えながら地味に仕事をしているTさんのような人に、どうせなら上に上がってほしいと思う。

 大企業になると、派閥やら妙な精神的な争いが、職制の間では横行しているという。Tさんから聞いた話だが。
 つまり、「自分のことだけ考えていればいい」ということが、まかり通りかねない世界だ。
 そして自分の出世やら何やらをほんとうに至上として考え、仕事をしている人たちは、非常に空虚な表情をしている。どんなにお金が入っても、どんなに立場が偉くなっても、貧相だ。

 ぼくはといえば、今までのこの「カップリング」をしていた作業者も、異物の付着に気がついていたと思う。だが、「見えなかった」「気づかなかった」で、事は済む。
 つまりぼくは疲れたのだ。「こんなのがあった」と報告したことで、「またあったら、呼び出して」と言われた手前、いつもより注意して、異物が付いていないかどうか、よく見る羽目になった。
 だが、それでいいと思う。ぼくにとって、何よりつらいのは、自分ではないかのような行ないをすることだ。仕事をしていて、見て見ぬふりは、つらい。

 偶然、休憩所のテレビが、藤原鎌足がどうのこうの、とやっていた。幕府が滅んだのも、権力争いやら利権やら、現代でいうところの、「出世欲」が、ひとつの栄えた場を滅ぼした。
 考えてみれば、日本史、世界史に出てくる、何か栄えた場の滅ぶ場合、自然災害といった物理的な理由も多分にあるだろうが、人のもつ「欲」が、かなりの災いをもたらし、それによって滅びの道を辿ったことも数知れない。

 何も、学んでいやしない。
 ぼくもだ。
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