第192話 春の憂鬱

文字数 460文字

駅に向かう途中の路地。
知らない家の小さな庭先から、沈丁花の香り。

くらくらっと、軽い目眩。
春がそこまで来ている。

どこの女人が、こんなかぐわしい香水をつけているのか。
昔々のサムライが、その匂いに惑わされたとか。

実家の庭にも、沈丁花があった。
子どものぼくは、ぼんやりその匂いを感じていた。

白い花びらに、紅色の花芯だった。
そのまわりには、濃緑の葉が、陽光に照らされて。

ぼくは、時々、時間の中に取り残されたような気になる。
ナルシチズムではない。

ぼくの中の、死。
ぼくは、ぼくの中の死に、引きずられて生きているみたいだ。

過去の記憶が、現在の記憶になる。
ぼくは、ぼくの中から、這い出すこともできない。

引きずられ、引きずられていく。
ぼくは…。

20歳の頃の春。
30の春。
もうすぐ40。

なまめかしい春など、来ないほうが…。
なまぬるい春なんか、来ないほうが…。

時計が、いっぱい止まっているよ。
ダリが描いたような、捻じ曲がった時計が、いっぱい。

外に、出たいのか?
沈丁花にやられた、おれの中から。

そっとしといてくれないかな。
もう、あわてないから…。
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