第167話 自分を生かす、自分を殺す

文字数 1,722文字

 その店に1人の社長がいる。
 商店街の十字路の角にあるコンビニの隣り。
 骨董品や着物を売っている。
 S君は、犬の洋服を作る店をつくりたいと考えている24歳の青年である。
 彼が着物の生地を使って創作したいと思い、その店をたまたま訪れた。
 60代とおぼしき女店主は、穴だらけのGパンをはいたイマドキの若者が、なぜ着物を?と思った。
 S君は自分の考えを口にした。
 その店主(社長と呼ばれているみたいだから、社長なのだ)は、S君に興味をもった。
 これがはじまり。

 京都で着物の展示会をその社長は開くという。
 あなたの作品も展示する。いついつまでに、作って持って来て。
 S君は、提供された着物の生地で犬用の洋服、5点の作品を作って持って行った。
 すると社長は、あなた、人の洋服の手編みはできる? 4月から教室を開きたいと思っている。
 あなた、人に教えてみるのもいいんじゃない? と、S君にたたみかけてきた。

 S君は、2度目の訪問からトントン拍子に進む話に戸惑っている。
 娘がシカゴにいて、店をやっている。あなたのことも話しておくわね。
 着物をやる人はいるけれど、みんな歳を取っている。あなたのような若者にやってほしい。

 さて、S君は、今職場で一番仲良くさせてもらっている好青年である。
 誰に対しても同じように接し、まったく裏表がない。おまけにハンサムである。
 彼の、社長に関する話を聞いていて、この社長は、悪いことはしたかもしれないけれど、悪い人間ではないように思えた。S君の生き様のようなものが、この社長との縁を自然につくったように思えた。

 さてさて、この僕とS君の勤める職場には、もちろん上司がいる。この職場のボスは、なかなかの貫禄の持ち主。
 面と向かっては、けっこう多くの従業員が緊張してしまう。
「ねぇS君、その社長とうちのボスと、会っててどっちが緊張する?」
「かめさん、比較になんないよ。あの社長、ほんとに凄い。」

 生き方が、もう根本的に違っちゃってるんだろうね、と僕は言う。
 かたや、自分の好きな着物をやって生きていこうとして、きっとそれを実践して生きてきた人。
 かたや、大企業でたぶん頑張って働いて、それなりの地位を築き上げた人。

 自分の好きなことをして生きることは、自分を生かすことである。
 しかし会社は、なるべく自分を殺せる人が、生かされる構造をもつ。

 自分を殺すことは当たり前。みんな、そうやって生きてるんだよ。でも、と僕は思う。そういう当たり前のことがまかり通って、今どんな社会になってるの?
 毎日毎日誰かが殺され、自殺者は年間3万人を超え、豊かどころじゃない社会じゃない?

 S君は、自分のために「営業」をやった。頼まれもしないのに、企画書を書いて渡した。
 自分のほんとに好きなことに対する情熱は、嘘偽りなく本物である。
 みんなこうやってメシ食って生きてるんだ、というのは、借り物の姿である。ほんとじゃない。
 心に響くもの。それは自然なもの。

 話はちょっと変わるけど、先日発刊された社内報みたいな冊子に、「子育てと仕事の両立」というテーマで、両立させてる女性社員の記事があった。素晴らしいと思う。
 だがそこには、「ウチはこれだけ育児と仕事を両立させたい女性を支援しています」というCMのような会社の意図も感じられた。あまりにも、稀な例なのだ。
 でも、それでいい。会社は人を利用し、人は会社を利用すればいい。会社とのスタンスは、そのくらいでいい。

 ただ、自分をしっかりもっていないと、ただ利用されるだけになってしまう。
 好きなことをして生きる、というのは、何もそれでメシ食ってる、とまで行かなくてもいい。
 ただ、自分はこうやって生きたい、生きるんだ、これをやって、という目標のようなものをメインに置いて、それを基盤に生活をまわしていければいい。仕事、金稼ぎの労働は、その生活の中のホンの一部である。

 S君は、僕と同じ仕事をやりながら、ミシンで犬の洋服を作っている。
「自己表現」をしたいという道(僕は文章)を行く、同じ匂いがする。だから仲良くできるのだろう。
 自分を生かすには、タフでなくては。
 いささか疲れ気味の、38歳のブログである。
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