第48話 要するにだ。

文字数 1,141文字

 気になるので、言葉にしてみよう、寝る前に。
 私は感覚で生きている人間である。
 論理立った言葉の羅列、リクツというヤツは、あとからついてくる。
 で、私が連日テレビでどこぞの首相がどこぞの神社にお参りすることについて、どこぞの国が「やめてほしい」と言っているにもかかわらず、どこぞの首相はそのお参りをし続けるらしいのだ。

 で、私は感覚として感じたのである。「こやつ、なにゆえ、そこまでこだわるだ?」
 さらに私は、このどこぞの首相に、あの独裁者の影が見えたのである。「やめてほしい、と言っている人の気持ち、考えないんだっぺか?」
 クニとクニが、いさかいを起こしかねない情況は、早めに摘んだほうが、よくないだか?

 私は、人と人がイガミ合う最大の理由は、「相手を理解しようとしない気持ち」にある、と、考えている。
 日本が、アジアの人たちに、犯した罪は、厳然とあるのである。
 しかしまぁ、はっきり言って、今回のことは、一体なんなのだろう、という感じは否めない。 
 中国の人たち、全員が全員、反日であり、暴動を起こしたわけではない。
 実際のところ私はカネもないし、中国へ行って、じかに触れるわけにもいかぬ。で、結局メディアによる「報道」を、見るだけである。

 このメディアというやつが、なかなかの厄介者だ。
 で私は自分が、これはホントだと思える報道を、自分の中に残す。というか、自然に残る。
 たとえばドイツの、「中国の暴動はよくないが、日本はかつて、もっとわるいことをしていた」という意見とか。

 中国の為政者が何を考えているのか、私はほんとうのところは知らない。
 ただ、メディア。このメディアが、どうも引っ掛かって仕方ない。
 1970年前後の日本の学生運動がそうであったように、なにも日本の学生ぜんぶが「反体制」であり、どうちゃらこうちゃらというわけでもなかった。
 だのに、「一つの時代」として、象徴的に「全共闘世代」というかたちが残っている。

 だが私は、戦争の時代というのは、ひとつの時代として終わらせてはならぬと思うのだ。
 そして日本が、アジアの人たちに、何をどう、つぐなってきたのか。私が知らないだけなのか。何も思い浮かばないのである。
 ともかく、今回の参拝問題は、戦後の日本が、その諸国に対してどういうスタンスをとってきたのか、ということの、ひとつの発露にすぎないと思うのだ。
 あやまるだけなら、誰でもできる。ちょこっと気にかかるのは、以下のこと。

 連日の中国に対する報道の仕方も、「反中国」を、見る側に植え付けやしまいか。
 テレビを見て、まるですべてを知ったような気になることはないか。
 ぼーっとしながら。それはオレか。

 もう限界だ。寝るぞー、風呂入って。
 今日も仕事はしんどかったぜ!
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