第500話 no-title

文字数 845文字

 たまにぼくは考えてしまうのだけど、ぼくという人間がそれほど大きくないことは分かっているが、この世であるていど頑張って生きて来、それなりの地位を築いたひとたちにとって、ぼくという存在は、もしかしたら、我慢ならぬ、容認ならぬ人間として映るのではないか。

 いや、だいぶ前から感じていたことではあった。
「不登校を考える会」、越谷であった、あの時、ぼくと、小児科の医師と、社会学者の3名でパネラーをやったのだ。医師も学者も知己のひとで、医師は自称アル中、学者はぼくのホームページをつくってくれたひとだった。
 参加していたひとりの親から、ぼくに向かって、「あなたはずいぶん自由に生きてきたようですが、その責任というのは、どうやって取ってきたのですか。」という質問が出た。
 ぼくは、「責任というのは、よく分かりません」という答えをした。
 実際、分からなかったし、今も、おそらく分かっていない。

 豊橋にもそういう場所があって、一度行ったことがある。そこの主催者が本を出すの出さないのという話を、おそらく出版関係と思しき人としていて、その出版関係者の人が、やはり「責任」という言葉をぼくに向かって言ったのだ。その時ぼくは、「責任って、何ですか?誰もが分かってるふうな言葉でも、その解釈は1人1人違うと思います。その定義を、まず確認してからでないと、話は、何の話にもならないではないですか。」もっと柔らかな口調だったと思うが、ぼくはそんなことを言っていた。

 20歳の頃は、大学の語学のクラスメイトからもらった年賀状に、「自分に責任をもって行動しよう」と書かれた年賀状をもらった。
 またある人は、とある通信紙でぼくについて、「強迫観念症ではないかと思う」と書いていた。
 語学クラスの人も、ほんとに真面目な人で、ぼくを「強迫観念症」と診断してくれた人も、すこぶる真面目な人だった。そして彼らは、おそらくこの世で、チャンと生きていけそうな人たちだった。「責任」についてぼくに問うた人たちも、そうだった。

 責任、か。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み