第117話 ○×△□●▽■…。

文字数 2,233文字

 月曜の仕事が終わり、またОさんの車で送ってもらう。
 しかし疲労コンパイと寝不足の私は、うまくロレツが回らなかったのである。
 いや、ロレツは回っていたようだったが、頭に透明のカーテンがかかっているようで、脳→ 舌への伝達の最中に、微妙に遮断されていた。

 そのまま、書く。

 言葉。
 なかなか厄介なものではある。
 電話なんかでも、相手の言うことがうまく聞き取れなかったりするときがある。
 何度も聞き返すのもどうか、と思い、わかってもいないのに軽薄に「うん、うん」などと相槌を打ってしまうことがある。
 これはほんとうにいけないことだと思うのだが、私の友人は10年以上続いている関係が多いので、「ああ、Kさんだから、こういうことを言っているんだろうな」と、想像して(私の中のKさんというフレームを通して)うなずいてしまったりする。
 そして私は、言葉はどこまでも不完全であるという観念から抜け出せない。だが、だから言葉にはこだわりたいのだ。

 顔。
 これも、なかなか融通がきかないものである。
 私は、ただ何も考えず、うどんなんかを食べていても、「ずいぶん難しいこと考えて食べてるんだね」と言われてしまうのである。
 きのう椎名麟三の本を読んでいて(何度も読み返しているのだが)、
「人間は、そのものに意味を与える。あの景色は素晴らしかった、と言う時、べつに桜の木が何千本あった、ということが問題なのではない。その景色に、それを見た人が無意識だとしても何らかの意味を与えているのだ」
 というような一節があり、なるほど、さすが椎名先生、とその思慮深さに改めて敬意を払わずにはいられなかった。

「触発」「共振」という言葉にも置き換えられるだろうか。
 私の顔を見たその相手が、その人の中のある「難しさ」を、私の顔に見た…なんてことは、ないか。
 とにかく私はそんなに難しい人間ではなく、基本的には猿のように単純にできている。だからたとえ難しげな顔をしていたとしても、許してほしいのである。
 目の前にいるあなたに不満があるとかではなくて、私はいつも自己完結する性質なので、その顔は、私の中の何かに対する不満、難しさである。まわりにいる方々は、気にしないで頂きたいと願う次第である。

 愛。
 やはり椎名麟三のエッセイにあったのだが、「愛は、それが(そのひとが)なくなってしまったら、いなくなってしまったら、という意識のもとでしか、残念ながら、感じることができなかった」というようなことである。
「もしこの人がいなくなったら…」という意識のもとから、自分がこの人をほんとうに愛しているか否かを知る、ということである。

 自由。
 どうしても椎名麟三から抜け出せないのだが、「人間の意識は自由である」
 そして下田逸郎と東由多加の唄った「自由はわれらの中にある」というニュアンス。
 自由は、外へ求めるものではない。自分の中に、すでに、あるのだ。
 その自覚をもたない人間は、たえず不自由さに自分を持て余すことになるのだろう。
 ドストエフスキーの「罪と罰」の、たしかキリーロフだったと思うが、「少女を姦淫しようが老人を殺そうが、自由だ、と思っている人間は、そういうことをしないだろう」という言葉は、一見矛盾するようだが、その自分の中に自由があるという意味では、一点の曇りもない真実なのだ。

 ブログ。
 けっこう人気のありそうなブログを拝見すると、気の抜けるほど当たり前のことを当たり前のように書いている散文やら詩のようなものに逢着する。(注/この「胎動」にコメントを下さっているかたのブログではないですよ、念のため。)
 で、そのブログへのコメントを見ると、「元気が出た」とか「勇気をもらった」というようなことが書いてあったりするのである。

 で、私の想像は現代の生活へと飛ぶ。スイッチひとつ、ボタンひとつでどうにでもできる簡単な、便利なモノに溢れたこの日常へだ。
 つまり、日常で手に触れるもの、目に見えるもの、形而下のこの世界の利便さ簡易さは、ヒトの形而上の頭の中にさえ、少なからず影響を及ぼしているのではないか、ということだ。
 あるいは、なにやら小面倒なことにさいなまれている人が多くて、簡単なシンプルな言葉に救いのようなものを見い出しているのだろうか。

 だが私が知りたいのは、その綺麗な前向きであるところの言葉を、作者が吐き出すまでの心的経緯なのである。おそらく、けっこう煩悶し、どろどろしているのではないかと思われるのだ。
 大体が、生きている人間である以上、その部分のほうが多く、大きいと思われる。
 そう思ってしまうと、美辞麗句とまではいわないまでも、きれいすぎる言葉で埋められた文章のようなものには、ましてそれを誰かに励ますような意味で書かれたものには特に、「はい、大丈夫ですよ」とロクに診察もせずに患者に告げる無責任な医者の姿とダブッてしまう。
 どこか一時しのぎ的で偽善のような気がして、信用がおけないのだ。

 だが、ほんとうにそこまで考えて作者がシンプルな言葉を吐いているのか、疑念もあるのだ。
 だがそんなことはどうでもいいのだ。励まし、励まされ、両者がそれでいいのなら、それでまったくいいのだから。いい、わるいなどという判断など、おこがましいとさえ感じてしまう。

 さて、東海地方は台風接近中である。テレビで見るまでもなく、気圧の重さで分かる。
 ますます頭の中のカーテンが厚くなりそうな、夏の夜である。
 重い。
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