第465話 あるもの

文字数 1,031文字

 あるものは、あって、ないものは、ない。
 そして、目に見えるものだけが、あるものではない。
 目に見えないものでも、あるものは、ある。

 目に見えないものが、「ある」というのは、感じるところに、ある。それを感じるのは、自分自身であることは、確かみたいだ。
 でも「それ」も、それじたい、「ある」のだ。
 それが「ある」から、ぼくはそれを感じ、それが「ある」と思えるのだ。それは、目に見えないのだけど。
「ない」ものからは、何も、「ある」とは思えないだろうし、「ない」ということしか、感じられないように思う。

 では、その、「ある」そのものは、何なのか。
 たとえば、人の生命、でも、生命がどこにあるのか分からない。
 生命の終わりとは、心臓停止が生命の終わりなのか、脳死がそうなのか、呼吸が止まることがそうなのか。まったく、生命が、どこにあるのか分からないではないか。でも、生命は、ある。

 で、たまたま人間は、とりあえず人間の形をしていて、そこに生命が宿っている、というふうに、ぼくは考えている。たまたまその生命が、人間の形をしている、というだけなのだ。
 つまり、その人の生命というのは、人の形はしているけれど、それは人の形という形であって、生命というのは、その中に、べつのものとして、あると思えるのだ。
 そこから、どうも、生命というのが、はじまってるように思えるのだ。で、終わるわけだけど、それは、その人の「死」という形なのだけど、でも、生命というのは、あるように思えるのだ。目に見えなくても、続いて、あるように思えるのだ。



「あなたが死んでも、私の中で生き続けます」という感覚を、ぼくはもっている。それは、自分がつくりあげているものでは、ないようなのだ。
 確かにその人は死んだのだが、ぼくの中に、ある、のである。いるのである。
 それがどうも、生命というもののような。
 だって、あるものは、それじたい、あるのだから。

 人が、人に何か伝える時、受け取り側と、差し出し側に、分かれる。差し出し側が、何か伝えたいとおもう。受け取り側は、それを受け取ろうとする。
 人間どうしの場合、こういう伝え合いが、簡単でもないけど、まぁ、できる。?

 自然が相手だった場合、あまり、「意思」は感じられない。森や湖は、ただ、そこにあって、人間に何も伝える意思は、ないみたいだから。
 でも、やっぱり生命なんだよなぁ。?

 カミサマは、自然の中や人の中に、いる、と思っています。

 何なのでしょう、この文は。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み