第742話 老いるということ

文字数 1,360文字

 実家の、勝手口から入って引き戸を開けると、母が台所に立ちながら、ご飯とホウレンソウのおひたしを食べていた。午前11時半。
 少し、笑ってしまった。ご飯、食べれてるんなら、大丈夫だ、と、何故か思った。

 こんにちは。
 ああ、いらっしゃい。久し振りねぇ。

 持参した、うなぎの蒲焼や、明治のLGナントカとかいう、身体に良さそうなヨーグルトなどを冷蔵庫に入れる。
 母、テーブルに座り、ぼくも座る。
 母、冷蔵庫を度々開ける。「あれ、なんかあるよ、アイスかな、食べる?」
 ぼくが持参したLGナントカである。「いや、お腹すいてないから、いいよ」

「でも、久し振りねぇ」と母。「そうですねぇ」とぼく。
 数秒後、また母、冷蔵庫を開ける。あれ、なんかあるよ。食べる?
 いや、お腹すいてないから。

 客人のようなぼくに、母は何か食べ物か何かを出したくて仕方ないらしい。
 おせんべいの常時入っているバケツのようなタッパーも、母はよく開ける。「あら、何もないよ」
 いや、要らないよ、お腹すいてないから。

 父が出てくる。ああ、いらっしゃい。
 しばらく、父母と3人でテレビを見ながら一緒にいる。特に、話すこともない。テレビがやっていた朝青龍のこと、野球のことなどを、父と話す。父は右耳が全く聞こえず、補聴器をつけた左耳のみで、ぼくの声を聞く。ぼくは父の左耳のそばで、大きな声を出す。
 母は、朝青龍のことも野球のことも、知ろうとも思わないようで、眼中にない。
 冷蔵庫を開け、おせんべいが入っているはずのタッパーを開ける。

 嫂が2階から降りてきて、「お兄さんが、話があるって言ってたわよ」
「あ、じゃ、行きます」
「あ、お兄さん、まだ帰ってきてないから」と嫂。兄は、今学校のナントカ長で、盆休みもないらしい。

 夕方になり、ぼくは持参した蕎麦をつくった。3人で食べた。だが、数分後、「晩ご飯、どうする?」と母が訊いてきた。
 さっき食べたよ、と、ぼく。
 あ、そうだっけ、と笑う母。
 だが、数分後、また「晩ご飯、どうする?」

 2階に行って、しばらく嫂と話をする。
「お義母さん、おかしいでしょう」
「そうですね、まぁ母は、もともと天然ボケみたいなところもあったけど」
「こないだも、孫(現在大学3年)にご飯つくらなくちゃ、って、2階に上がってきたのよ」
「そうですか…」
 バファリンを1日に1箱飲んだ話も聞いた。
「よく、年金を下ろして、生活費を保管してやってるなぁって思うわ、銀行の人とかも来てるみたいだけど、簡単に騙されちゃうわよ、ここにハンコ押して、って言われたら、きっと押しちゃうわよ」
 ほんとうにそうだと思った。

 ぼくの友達の友達が、介護に関する仕事をしているようだから、必要になったらその人に頼みたい由を伝える。「もう20年つきあっている友達の友達だから、信用できると思う、まったく見ず知らずの人に介護してもらうより…」

 老いることは、誰のせいでも、何の罪でもない。
 ただ、このまま「ボケ」が進行したら、その生命とは、いったい何なんだろう、とでも、ぼくは考えるのだろうか。
 将来、母が正気を失い、何もかも分からないまま、ただ生きるだけ、身体だけのような存在になってしまった時、ぼくは、母の死を、願ったりも、してしまうのだろうか。
 ふと、そんな想像したら、悲しくなった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み