第360話 死の用意

文字数 885文字

 若かろうが老いていようが、死んだ後、自分はもう何も人に伝えることはできない。
 死体に口があっても、自分の死体をこうしてほしい、と言えないのだ。
 だから死ぬ前に、伝えておきたい。まるでこれからも生きていくようであり、明日死ぬだろうなどと考えてもいない。だが、いつ死が自分に訪れても、まったくそれは自然なことなのだ。事故であれ老衰であれ病気であれ、殺人であったとしても、自然なのだ。

 といっても、たいしたことではない。
 ぼくが死んだら、願わくば海に捨ててほしいというだけである。それだけ。幸いなことに、ぼくには借銭もないし財産もないし、ぼくが残すものでまわりに迷惑がかかりそうなのは、ぼくの死体であるだけのように思えるのだ。
 生きている間に、ぼくはぼくなりに一生懸命人に接しながら生きてきたつもりだし、生きていくとしても、多くの煩わしさを人に与えたし、与えていくと想像する。
 もう、いいじゃないか、と思う。そんなとき、死は、とてもやさしい。
 できれば葬式も通夜もしてほしくない。香典だの何だのも要らない。

 一度も死んだことがないので、死ぬ際の気持ちは分からないが、死というもののあることには、とてもありがたい気持ちでいっぱいになる。
 猫は、自分が死ぬ前に、飼い主から離れてどこかへ行ってしまう、と聞いたことがある。
 ぼくにも自分の死ぬ時間を確実に予見できるなら、誰もいない、富士の樹海あたりに行って誰にも知られずに死んでいきたいと思うけれど、いつその時が来るのか、まったく見当もつかない。だから、せめてその時の準備はしておきたい。

 ここの賃貸の解約、ステレオ、CD、郵便貯金、信用金庫の解約、パソコン、このブログのこと、ヤフー、ビッグローブ、携帯電話の解約、JCBカード、VISAカード、本。
 ぼくが死んだ後の、これらの手続き、モノの行方のことを、一番身近にいる家人と話し、伝えておかなくては。先妻にも、伝えておきたい。
 愛猫のフクは、ぼくが一番安心して預けられるひとに、と、もう勝手に決めてしまっている。
 まぁしかし、まだまだ生きていくつもりであるようである、この男は。
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