第566話 セックス考

文字数 817文字

 ぼくが所謂マスターベーションを覚えたのが小学3、4年であったから、それは殆ど本能的なものであった筈なので、基本的にぼくはHであると思うのだ。
 だが、いつのまにやら考えることになった。Hなことを考えるのではない。Hについて考えるようになったのだ。

 セルジュ・ゲーンズブールの「ジュテーム…」という映画で、主人公は、「一緒にイクこと。それが愛だ。」と言っていた。
 一緒にイクこと。
 これが、愛だというのだ。

 それは、様々な意味を含んでいる。一緒にイクことは、難しい、滅多にないと思う。片方、どちらかがイクことは、よくある。
 だが、一緒にイクとは、どういうことか?

 相手の感じへ、自分が同化することではないかと思える。
 そこに、違和感があってはならない。
 すると、とてもナチュラルに、相手のイクと同時に、自分もイケる。
 それはある種の信心のようでもある。自分の中の想像を信じることである。「感じ」を信じることである。

 だがそれは、何もセックスに関した話に留まるものではない、と思えるようになった。
 同じ1枚の絵を見て感じるふたりの心根、同じご飯を口に運んで感じる食感、同じ音楽を聴いて感じる昂揚。
 これらすべてが、セックス的な次元に属するように思える。セックスそのものではない。だが、セックスそのものが、欲望に正体を持つのであるなら、その行為そのものも「セックス的」であるに過ぎないのである。

 セックスの理想、それを行なう両者の理想的な到達点が「一緒にイク」ことであるとするなら、それは何も、セックスという行為そのものによって体現が為されなくても、同等の、あるいはもっとだいじな「感じ」が、この世には素晴らしくたくさん在るように、思える。(そしてそれらを感じることのできる、ひとりひとりの自己が在る。)
 セックスは、その1つにすぎない。その範疇を、超えることはできない。それでいい。
 セックスのみが、もちろん、愛情表現の極地ではないのだ。
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