第191話 中村うさぎ、池田晶子、大江健三郎…

文字数 1,245文字

 作業着をコインランドリーで洗っている時、そこにあった「週刊文春」を読んでいた。
 むかしは伊集院静の「二日酔い主義」、大石静の「わたしってブスだったの?」が好きで、その連載エッセイを読むために毎週買っていた。
 今は、どうなんだろう?
 軽薄な芸能的ニュース記事は飛ばし、クンクンと嗅覚をちょっと研ぎ澄ます。
「ショッピングの女王」。ふーん、これが今の連載か。中村うさぎ…誰だろう?

 読んでみて、単純に面白かった。
 女性のエッセイで、ここまで「無頼」(ふるいネ)的な文章を書くひとを、初めて見た。いや、そのままの中村うさぎの日常、何十万もするブランド品を、カネもないのにカードでせっせと買ってしまう致命的な性癖、それが実にサバサバと書かれていた。(内面はどろどろしているのかもしれないが。)
 で、本屋で中村うさぎのこのエッセイの文庫本を買った。ホストクラブで湯水のようにカネを使うあたりまで、非常に楽しく読ませて頂いた。

 今日、1年ぶりに歯医者に行って待っている間、そこにあったのは「週刊新潮」。
 瀬戸内寂聴のエッセイが、むかしはあったはずだが、今はない。
 僕の嗅覚が「ここホレ、わんわん」で止まったのが、池田晶子の「人間自身」。
 池田晶子、誰だろう?
 読んでみると、ずいぶんしっかりしているひとのよう。
 久し振りに、現代に生きる作家(なのかな)で、自分の芯のようなものを読みやすい表現で明確に表現している文を見た思い。
 これは、近々本屋でこのひとの文庫本を買うことになる。

 さて、今通勤途中で読んでいるのは、大江健三郎の「見る前に跳べ」である。
 大江文学なるもの、初めての接触。
 遠藤周作もそうだったけれど、大江の作品も、テーマがとてもじんわりと伝わってくる。ただ違うのは、遠藤周作は一気に読めるのに対し、大江健三郎は一気に読むのが惜しく感じるところ。
 夏目漱石もそうだった。今、読んでいる途中、というその情況、状態で、自分の中に何かパワーのようなものがフツフツと湧き上がってくて、「このまま読んでしまうのはもったいない」という気になる。このパワーを、読むことにではなく、現実にあてたいと思うのだ。

 これは、何なのだろう?
「考える」というのは、「物事の本質について思索を重ねる」ということらしい。
 表面ではなく、本質。ものごとの、本質。

 たしかに、今の社会、表面、結果、成果、といった現実に見えるものばかりが重視されていて、それらばかりを気にして「考えている」。
 でも、本質というのは、目に見えないのでは?
 でも、しかしその本質は、言葉によって形になり、表現され、目に見えるものになる。

 自分が本を読もうとする行為は、自分の本質が共鳴される文と出会えることにつながっている。
 何かブログに書こうとする行為、これは自分の本質が共鳴される言葉と出会えること、自分の本質を文という形で表現しようということからの自己探求めいたものへ、つながっていっている。ブログが、そんな大袈裟なことではないにしても。
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