第668話 人間ぎらい(2)

文字数 1,218文字

 ぼくが「脱学校の会」にノメリ込んでいた20歳の頃のことは、何回かこのブログに書いてきた。
「別冊宝島」にぼくの実家の電話番号が、会の問い合わせ先として載ったりして、初対面の人ともワクワクして会ったし、会の場所だった世田谷の塾へも、喜んで行っていた。

 いろんな人がいた。
 ぼくは、いろんな人と会えることを厭うどころか、楽しみとしていた。
 なぜか?
 まず自分と、他者との間に、「学校に対する疑問」という接点があった。さらに「疑問を持ってしまう自我」というのがその奥にあって、それは社会が悪いとか学校が悪いとか言っても何も始まらず、結局はひとりで自分の問題と向き合わねばならない、というような関係(?)が、ぼくには心地よかったような気がする。

 学校に行かなかった小・中学の頃も、学校帰りの友達がよく家に遊びに来ていたし、ぼくは彼らと遊ぶのが好きだった。
 ただ、彼らが高校に進み、ぼくがセブンイレブンで働き始めたら、徐々にその関係も消えていった。

 定時制高校も大学も、「友達」という人はいたけれど、現在も関係が続いているという人は、ひとりもいない。
 去年、20年ぶりにみんなで会おう、と誘ってくれた、予備校時代の友達の電話も、ぼくは断ったりしている。

 働いていた職場でも、親しくなった人はずいぶんいたけれど、けっこう飲み会の誘いを断り、家でひとりで(同棲しているひとはいるけれど)飲んでいたりする。

 学校も職場も、なんとなく「その場かぎり」という関係のような気もする。いや、職場がきっかけで知り合って、何年も続いているKさんとのつきあいもある。たがいの本質のようなところを、理解してるような関係は、つきあっていて安心だし、それが嬉しいのだろう。
 出会う場所はどこであれ、続く関係は続くということか。

 だが、しかし脱学校の会で知り合った、数人の人たちとは、今も会いたいと思う。会って、べつに何も話すこともなく、ただ疲れて、じゃ、また、となるだけであったとしても、あぁ、やっぱりササキ君だ、とか、タナカさんだとかオオノさんだとか、「確認」できるだけで、嬉しいと思う。

 たぶん彼らは「変わらぬ自我」をもっていて、何か変わっていたとしても、まるで変わっていないように、ぼくは感じてしまうような気がする。
 予備校の大検コースで知り合った、数学講師のコバヤシさんから、「ミツルさん(ぼくの本名)とは、たまたま予備校で会ったけれど、違う場所でも必ず会っていたと思います。まさに運命的な出会いですね」というメールを頂いたりした。ぼくもそう思う。

 続いていく人間関係とは、そういうものなんだろうと思う。
 仕事する仲間だとか遊び仲間だとか、損するとか得するとかいうのではなく、おたがいが、自分に素直につきあえて、相手の自我を認められる(許せる)関係、というか。

「人間ぎらい」というと、まるで人間ぜんぶ嫌い、という言葉だけど、なかなか、そうはなれないような気がする。
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