瑞兆 5

文字数 773文字

 こんなに走ったのはいつぶりであったか。鷦鷯は、裳裾を抱え上げて脛が丸出しになるのも厭わず、楽屋への通路をひた走った。
 すれ違いざまに目を丸くする者、慌てて道をよける者、何事かと背中を目で追う者……。後で噂になろうが構わぬと思った。

 ようやく楽屋に辿り着いた時は、ゼイゼイと息をして苦しいくらいであったが、深呼吸する暇も惜しく戸を押し開けた。

「白雀殿!」

 楽屋の奥で床几に腰掛けていた舞手の男は、鷦鷯の姿に花のような笑みを向けて、よう! と右手を差し上げた。
「なんだ? 一国の御台様ともあろうという貴婦人が、十四、五の娘御でもあるまいに、大慌てで走ってくるなぞ……」
「か……開口一番、妾への駄目だしとは……さすがに……凹みまする」 
 肩で息をしながら抗議する鷦鷯。
 白雀は、これはすまぬ、と口元を覆ってクツクツと笑った。
 見てくれは、あの日見送った時と変わらぬ若々しい姿のままだ。
「鳰は変わらず笑ましいのう」
「なっ! 何を言われますやら」
 鷦鷯は顔を赤くして、ソワソワと胸を掻き抱いた。
「もう、年を越したら38の立派な大年増でございますよ」 
「ほんに……息災で良きことだ。時に、背君(せぎみ)朱鷺(しゅろ)殿は、誠に良い男だな。『蘭陵王』は笛が良くないと締まらぬ。背君の演奏で実に気持ちよく舞えたぞ」
「え? ああっ。背殿のことまで……」
 鷦鷯が狼狽えると、白雀は天井を見上げて(とぼ)けた顔をした。
「あ……まぁ、実は、鳰の婚礼前からボチボチ朱鷺とは会っているのだ」
「はいっ?」
「ほれ、……大事な鳰を預けるのだ。どのような男であるのかと思うてな」
「ええ……」
 鷦鷯は泣きそうな顔で白雀を見詰めた。
「知らぬは……妾ばかりで御座りましたのか?」
「いや、ほれ、俺がチラホラしておったら、鳰の人生の障りになるであろうよ」
 白雀は己の唇をそっとなぞりながら、ニヤリと鷦鷯を見返した。
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登場人物紹介

白雀(はくじゃく)

下級仕官の四男。戦では「花方」と呼ばれる切り込み隊の一人。

自他ともに認める朴念仁。堅物なくらいに真面目な性格。

新嘗祭の奉納舞ではトリを勤める舞の名手。

鸞(らん)

「久生(くう)」と呼ばれる魂を喰らう無形の神様。

白雀を気に入って自分の食物認定して付き纏う。

相手によって姿形を変えるが、白雀の前では5歳の童の姿でいることが多い。

傲岸不遜で態度がデカい上、戦闘能力も高い。

久生はもともと死者の魂を召し上げる役割を持つが、鸞の場合、生きている者から魂を引っこ抜くこともする。


波武(はむ)

実の名は「大波武」。成人男性を軽々背負える程の大きな白狼の姿の「尸忌(しき)」。

尸忌は、屍を召して地に返す役割を持つ神。

白雀の屍を召し損ねて以降、他に取られないように、何くれと力になる。

鳰(にお)

神に御身を御饌(みけ)に捧げる「夜光杯の儀」の贄にされ、残った右目と脳をビスクの頭部に納めた改造人間。

医術師の梟(きょう)の施療院で働いている。瀕死の白雀を看護した。

阿比(あび)

死者を弔う際に久生を呼び下ろす「謳い」。

屋代に所属しない「流しの謳い」を生業としており、波武、鸞とは古くからの知り合い。

遠仁相手に幾度となく修羅場を潜り抜けている。細かいことは気にしない性格。

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