射干玉 5

文字数 1,174文字

 結局のところ、一晩何も起こらず済んだ。当てが外れたような、ホッとしたような心地で寝床を出ると、先に起きていたのだろう雨戸を引いた(らん)が外をのぞき込んでいる。
「どうした?」
「雨が降っておる」
 あー……。
 外は、シトシトと音もなく冷たい雨が降っていた。
 垂れこめた雲は途切れもなく直ぐに止む様子もない。
 どうする? という鸞の顔色。蓑笠でも買うて行くしかないな。

「足元が悪いと次の宿まで時間がかかる。早めに出立するとしよう」
「行くのか?」
 鸞は目を丸くした。ウンザリというよりワクワクしている様が鸞らしい。
 俺は宿屋の男に頼んで2人分の蓑笠を手配してもらえるように頼んだ。ついでに、飯屋に途中で食う握り飯を頼む。手配が済むまで軽く粥でも啜っておくことにした。

「次の宿へ行く途中に切通があって元より足場が悪い。かように湿っていては難儀だ」
「ん? その道は通ったことがあるのか?」
 鸞が顔を上げて俺を見た。
「此処は主要街道筋だ。戦場(いくさば)までに……通ったことがある」
 ああ……と、鸞は眉を曇らせた。 
 
 宿屋の玄関先で宿賃を払い、荷をまとめ直して身支度を整えている間、鸞は何故だかずっと眉間に皺を寄せていた。一方で宿屋の男は鸞が笠を被るまでジッと見つめているようなのが気になった。

「アヤツ、きっと付いてくるぞ」
 宿屋を出たところで鸞が呟いた。
 俺はそっと後ろを盗み見る。
 宿屋の男は他の客の相手をしているところであった。
「湿気の所為か、昨日より臭くてたまらぬ」
 鸞は軽く咳払いをした。
 その所為か? 今日は俺の左腕がピリピリとしていた。

 雨とは言え、さほど風が強くない。街道筋は思ったほど人は引いていなかった。三々五々固まった笠の群れ。馬喰が引く馬に乗る親子。それぞれが言葉少なにすれ違っていく。

「宿屋の男、矢鱈と鸞を見ていたぞ」
「うわー、気持ち悪っ」
 鸞は肩をすくめた。
「吾は面食いなんだぞ! 雑魚には興味ないわ」
 そんな情報は要らぬ。
「昨夜、主が『宿の男はハゲ』みたいなことを言っておったがな、今朝時分、角頭巾から黒々とした毛が覗いておったぞ」
「かといって、全部が生えておるとは限らぬ」
 鸞はニヤニヤと笑った。
「ここまで来れば、其方にも充分感じるであろう?」
 まぁ、確かに。宿屋を離れれば離れる程、ピリピリとした痛みが左腕を走る。気にして後ろを振り返るが、らしき人影は見えぬ。相手の気配はするが姿が見えぬと言うのは、何とも気味が悪い。

 急に風が出てきた。蓑の前をしっかりと合わせ、笠の端を抑える。
 風が呼んだ雲が一段と雨脚を強めた。
 これは堪まらぬ。一旦どこぞで凌ごう。
 目の前に、切通が見えてきた。
「鸞、先の切通の奥に(うろ)がある。そこで雨脚が弱まるまで待とう」
「うむ。このままだと蓑の中まで濡れそうだ」
 俺らは雫が跳ねあがるほどに強まった雨の中、先を急いだ。
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登場人物紹介

白雀(はくじゃく)

下級仕官の四男。戦では「花方」と呼ばれる切り込み隊の一人。

自他ともに認める朴念仁。堅物なくらいに真面目な性格。

新嘗祭の奉納舞ではトリを勤める舞の名手。

鸞(らん)

「久生(くう)」と呼ばれる魂を喰らう無形の神様。

白雀を気に入って自分の食物認定して付き纏う。

相手によって姿形を変えるが、白雀の前では5歳の童の姿でいることが多い。

傲岸不遜で態度がデカい上、戦闘能力も高い。

久生はもともと死者の魂を召し上げる役割を持つが、鸞の場合、生きている者から魂を引っこ抜くこともする。


波武(はむ)

実の名は「大波武」。成人男性を軽々背負える程の大きな白狼の姿の「尸忌(しき)」。

尸忌は、屍を召して地に返す役割を持つ神。

白雀の屍を召し損ねて以降、他に取られないように、何くれと力になる。

鳰(にお)

神に御身を御饌(みけ)に捧げる「夜光杯の儀」の贄にされ、残った右目と脳をビスクの頭部に納めた改造人間。

医術師の梟(きょう)の施療院で働いている。瀕死の白雀を看護した。

阿比(あび)

死者を弔う際に久生を呼び下ろす「謳い」。

屋代に所属しない「流しの謳い」を生業としており、波武、鸞とは古くからの知り合い。

遠仁相手に幾度となく修羅場を潜り抜けている。細かいことは気にしない性格。

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