釣瓶 9

文字数 1,206文字

 酒をあおるごとに、雀鷂は、本来の媼の姿に戻っていった。本人も気が付いているのだろう。だが、表情は実に穏やかであった。
 それと共に、肉が腐り落ちていくあの厭わしい臭いも段々とはっきりとしてきた。

「かような吹雪になりそうな日には、前の山道を行く旅の者を物色するのよ」
 雀鷂が、猪口を手に語る。
「引き入れたのが女子なら、吾の為に利用する。要らぬところは湖沼に捨てる。男だったら喰う。供が誰かなど気にせなんだわ。親子だったものも、夫婦だったものもおる」
 俺の猪口が空になったのを見て、ちろりを傾けた。
「かように旅の者が不明になったら、近隣の宿が騒ぎそうなものだが?」
「そこはな、吾の鼻が利くのよ。何者かから逃れようとしている者の気配をな。道ならぬ恋に身をやつす者や、罪から隠れようとしている者や、非道な運命から逃れようとしておる者や……。かような者らは、自らの消息を隠そうとしておるもので、実際居なくなったところで足が付くことはない」  
 なるほど。都の物狂いの引導を渡した親子の遺体の出所は、ここか……。

「其の方の為に利用する……とは?」
 猪口の酒に口をつけて、俺は問うた。雀鷂はニンマリと笑った。
「釣瓶を……。そこに仕舞ってあるよ」
 冬は使えない井戸か。
 猪口をあおった雀鷂は、大きく息をついた。それは、安堵の息であった。

「久しぶりに、良い酒が呑めたよ。もう、思い残すことはない。終いに、良き吞み相手を得た」
「……時に、雀鷂よ。其方、何か抱えておるものがあるのだろう?」
「ああ? 何のことだ?」
 顔を上げた雀鷂の髪が、ごそりと落ちた。顔の半分の皮が垂れさがっている。
「贄を抱えた遠仁を抱えていると見たが?」
「……ふん。吾が逃れるのを介けた、城下から憑いてきた奴のことか」
「逃れる? 其の方、何かしたのか?」
「今思えば、尽くした心に応えて呉れた者を、吾は殺したのよ。独りに尽くせなど無理な話だと思った。数多の者にちやほやされる夢のような世界を手放せなんだ。金を奪って逃れる時に、遠仁が吾に憑いた。……なんだ? それが……欲しいのか? ……いいぞ。呉れてやる。ついでに……吾も召せばよい」

 雀鷂の身体は見る間に溶け崩れていった。

 クシャクシャと重なった衣の隙間から青白い光が見えた。かき分けると青白い玉が腐肉に埋まっている。俺は左手をそっとかざして、それを吸い込んだ。

「久しぶりに濡れ場が見られるかもとドキドキして見守っていたのに、つまらぬ! もう少し引っ張れよ!」
 衝立の向こうから鸞が顔を出した。
「主が寝たふりと解っているのに醜態が晒せるか。この変態め!」
「最後は余計だ!」
 鸞は衝立の陰から這い出ると、ぐずぐずの肉塊となった雀鷂を見下ろした。
「ふむ。コヤツに憑いていたのは城下に居た遠仁か。して、何を抱えておったのだ?」
「ああ、これ。……多分、皮だな」
 俺は折り畳まった薄紅色の柔らかそうな肌の塊を鸞に示した。 
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登場人物紹介

白雀(はくじゃく)

下級仕官の四男。戦では「花方」と呼ばれる切り込み隊の一人。

自他ともに認める朴念仁。堅物なくらいに真面目な性格。

新嘗祭の奉納舞ではトリを勤める舞の名手。

鸞(らん)

「久生(くう)」と呼ばれる魂を喰らう無形の神様。

白雀を気に入って自分の食物認定して付き纏う。

相手によって姿形を変えるが、白雀の前では5歳の童の姿でいることが多い。

傲岸不遜で態度がデカい上、戦闘能力も高い。

久生はもともと死者の魂を召し上げる役割を持つが、鸞の場合、生きている者から魂を引っこ抜くこともする。


波武(はむ)

実の名は「大波武」。成人男性を軽々背負える程の大きな白狼の姿の「尸忌(しき)」。

尸忌は、屍を召して地に返す役割を持つ神。

白雀の屍を召し損ねて以降、他に取られないように、何くれと力になる。

鳰(にお)

神に御身を御饌(みけ)に捧げる「夜光杯の儀」の贄にされ、残った右目と脳をビスクの頭部に納めた改造人間。

医術師の梟(きょう)の施療院で働いている。瀕死の白雀を看護した。

阿比(あび)

死者を弔う際に久生を呼び下ろす「謳い」。

屋代に所属しない「流しの謳い」を生業としており、波武、鸞とは古くからの知り合い。

遠仁相手に幾度となく修羅場を潜り抜けている。細かいことは気にしない性格。

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