爪紅 10

文字数 1,178文字

 背後で人の気配がした。
 俺と鸞は、ハッとして振り返った。

 拝殿の入口に立っていたのは、屋代の『謳い』である(らい)であった。
「かくなれば、我の知りうる顛末を総てお話せねばなるまいな」
 深く溜息をついた鶆は、俺と鸞に円座を勧めて、自らは湖沼に面した側に腰を落ち着けた。

 雪は、いつの間にやらやんでいたが、湖沼には雪の塊がチラホラと浮いている。

「さても、何処から語ったものやら……」
 
 都の商家は城下でも有数の呉服問屋である。
 (あるじ)と少なからぬ子女を設け、遅くに出来た末娘が入江であった。
 入江は、ある年の新嘗祭で奉納舞楽を観覧し、類稀(たぐいまれ)なる舞手であった男と恋に落ちた。身分違いの恋であったが、入江は大事にされ翌年には子に恵まれた。
 しかし、世の人は口さがないもので、婚外子を設けた入江への風当たりは強かった。そこで、商家の主は湖沼の別荘へ入江とその子を住まわせることにした。
 都は、城下と別荘を行き来して入江の面倒を見ていたが、その頃には男は影をすっかりと潜めてしまった。多忙の身では、なかなか城下を離れることは出来ぬであろうと、入江は諦めていたようである。ただ、授かった子どもを大事にしようと、それに一念を注いでいるようであった。

 入江が湖沼に移って初めての冬、入江とその子は忽然とその姿を消した。お付きの侍女も傍用人も誰一人気づかぬ内に、居室はもぬけの殻になっていた。

 何せ雪深い冬のこと。城下まで「入江行方知れず」の報が届くには時間を要した。知らせを聞いた都が、取るものをとりあえず湖沼の別荘に駆けつけたころには、もう春であった。家人と共に、必死の思いで入江を捜索した。
 その取り乱した様が「物狂い」の噂を呼んだ。

 そんなある日、湖沼に水死体が上がった。だいぶ水に浸かっていたせいで男女の別も解らぬ始末であったが、腕に子どもを抱いていた。
 それが入江だという確証は何もない。
 腐り崩れた肉塊がその子であるという証左もない。
 だが、それから都は完全に狂いはてた。
 水死体のぶよぶよに崩れた指先から爪を剥ぎ取り、入江が好きだった桜貝に見立てて集め始めた。
 屋代に入りびたり、『謳い』に弔われるために連れてこられた遺体を吟味し、子どもとあればその爪を欲しがった。
 城下の商家は都を気味悪がり、湖沼へ迎えを寄こさなくなった。
 歳を経り、狂態が恍惚の域に入っても、一線を引いて都の世話を厭う様を隠さなくなった。

「では、今、都様のお世話をしているのは……」
 俺は、数年前から世話をしはじめたのだという侍女の顔を思い浮かべた。
「兵部大丞(たいじょう)様であるよ。確か、御子女様が入江様と懇意にされていたとかで」
 鶆の答えに、俺はハッと息をのんだ。
 思わぬ名が出てきた。
 此処で雎鳩(しょきゅう)とも繋がるとは思わなかった。
 
 どういう……ことなんだ?
 
 では、雎鳩は全て知っていて、俺を巻き込んだのか。
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登場人物紹介

白雀(はくじゃく)

下級仕官の四男。戦では「花方」と呼ばれる切り込み隊の一人。

自他ともに認める朴念仁。堅物なくらいに真面目な性格。

新嘗祭の奉納舞ではトリを勤める舞の名手。

鸞(らん)

「久生(くう)」と呼ばれる魂を喰らう無形の神様。

白雀を気に入って自分の食物認定して付き纏う。

相手によって姿形を変えるが、白雀の前では5歳の童の姿でいることが多い。

傲岸不遜で態度がデカい上、戦闘能力も高い。

久生はもともと死者の魂を召し上げる役割を持つが、鸞の場合、生きている者から魂を引っこ抜くこともする。


波武(はむ)

実の名は「大波武」。成人男性を軽々背負える程の大きな白狼の姿の「尸忌(しき)」。

尸忌は、屍を召して地に返す役割を持つ神。

白雀の屍を召し損ねて以降、他に取られないように、何くれと力になる。

鳰(にお)

神に御身を御饌(みけ)に捧げる「夜光杯の儀」の贄にされ、残った右目と脳をビスクの頭部に納めた改造人間。

医術師の梟(きょう)の施療院で働いている。瀕死の白雀を看護した。

阿比(あび)

死者を弔う際に久生を呼び下ろす「謳い」。

屋代に所属しない「流しの謳い」を生業としており、波武、鸞とは古くからの知り合い。

遠仁相手に幾度となく修羅場を潜り抜けている。細かいことは気にしない性格。

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