水上の蛍 3

文字数 998文字

 俺自身、縁結びの願掛けなどというものには、縁がなかった。生活の大部分は己の仕事が占めていたので、そも、異性がどうこうなど構う暇がなかったのだ。経験がない訳でもないのだが関係性が続かないのが常で、執着がないのか淡白なのか。自分のことはよく解らぬものだ。

 かようなわけで、庵の周りに垂れている夥しい数の願掛けの赤い帯の群れを目にした時、言いようのない仄暗さを感じ、足がすくんだ。周辺の木にさえ赤い帯が揺れている。長年蓄積した赤い帯には、くすんだり千切れたりした襤褸(ぼろ)切れ同様のものも在って、闇の深い情念すら感じる。

「これは……『思い』だけは自由でありたいという女子(おなご)の願いなのよ。ドン引かないで、健気で()い奴と思いなさいな」
俺の気配で察した雎鳩(しょきゅう)が苦笑まじりに言った。

 雎鳩も、以前来たことがあると言ったか……。
 やはり、願をかけたのであろうか。

 庵の正面に回ると、庵に向かって蹲っている小さな背中が見えた。
 先客の子女であろう。従者は連れず独りであった。
 庵の正面にある池とは、思っていたよりも大分広いものだ。木々の陰に沈み、静かに青鈍色の水面を晒している。生き物の気配も無く光を返さぬ様は、池の深さを感じさせて背筋がゾワリとした。

 先客の祈りを妨げぬように、静かに控えていたが、やがて振り向いた子女と目が合ってしまった。
「あ……兵部の………雎鳩様では」
 落ち着いた(ひわ)色の衣を纏った子女は、儚げで大人しい印象だった。
「これは、邪魔をいたしました。烏衣(うい)様」
 扇で顔を隠しながら丁寧に挨拶を返す雎鳩は、先刻とは別人だ。
「先日は大変な目に会われましたな。心よりお見舞い申し上げる」
 烏衣は眉を曇らせて僅かに頭を下げた。交喙(いすか)との顛末のことを言っているのであろうと察した。雎鳩は、お気遣い痛み入ります、と丁寧に頭を垂れた。
「今時碌な男を紹介されぬ。家柄だの釣り合いだの、正直うんざりであるよ」
「まぁ、妾と同じでありまするな。かくなる上は、逆玉の輿を狙う下位の男の方が活き活きとして選び甲斐があるやもしれませぬ。安穏と世襲にすがる者は面白味に欠けまする」
「あら、雎鳩様、大胆なことを。まぁ、こちらが上位となればなかなか断れぬであろうし、障りと言えば親の顔色くらい。それを覆す逸品たれば後は

くらいのものでござりましょう」
 女子同士というのは結構凄まじいことを話題にするものなのだな。
 俺は面の下で冷汗をかいた。
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登場人物紹介

白雀(はくじゃく)

下級仕官の四男。戦では「花方」と呼ばれる切り込み隊の一人。

自他ともに認める朴念仁。堅物なくらいに真面目な性格。

新嘗祭の奉納舞ではトリを勤める舞の名手。

鸞(らん)

「久生(くう)」と呼ばれる魂を喰らう無形の神様。

白雀を気に入って自分の食物認定して付き纏う。

相手によって姿形を変えるが、白雀の前では5歳の童の姿でいることが多い。

傲岸不遜で態度がデカい上、戦闘能力も高い。

久生はもともと死者の魂を召し上げる役割を持つが、鸞の場合、生きている者から魂を引っこ抜くこともする。


波武(はむ)

実の名は「大波武」。成人男性を軽々背負える程の大きな白狼の姿の「尸忌(しき)」。

尸忌は、屍を召して地に返す役割を持つ神。

白雀の屍を召し損ねて以降、他に取られないように、何くれと力になる。

鳰(にお)

神に御身を御饌(みけ)に捧げる「夜光杯の儀」の贄にされ、残った右目と脳をビスクの頭部に納めた改造人間。

医術師の梟(きょう)の施療院で働いている。瀕死の白雀を看護した。

阿比(あび)

死者を弔う際に久生を呼び下ろす「謳い」。

屋代に所属しない「流しの謳い」を生業としており、波武、鸞とは古くからの知り合い。

遠仁相手に幾度となく修羅場を潜り抜けている。細かいことは気にしない性格。

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