掌(たなごころ)の月 9

文字数 1,130文字

 生まれて初めて「触覚」というものを獲得した鳰は、それこそ貪欲に色々なものに触れてその感触を学んでいった。
 俺に触れる前は、最低限の感覚として温度の違いや硬さや柔らかさ、痛覚などは体験していたらしいが世の中勿論それだけではない。毛皮がモフモフの波武や、頬の柔らかい鸞など、早速鳰のお気に入りになっていた。
 厨仕事も菜園の作業も一々触り心地に感動して独り言を撒き散らすので、微笑ましいやら五月蠅いやら涙が出るやら、もうこちらの感情も揺さぶられっぱなしである。なかなか作業が進まないのはご愛敬で、先日終に包丁で指を切って大騒ぎになった。
(わぁ、指の皮が切れた!)
 の鳰の一言で厨は騒然となり、鸞に包丁を取り上げられるわ、俺に指を包帯でグルグル巻きにされるわ、波武は吠えるわ、梟は慌てるわ……。もうここは良いから座って待っておれ、と、つくねんと一人椅子に座らされてブーたれていた。

 数日後の満月の夜、庭に大き目の盥を出して水で満たした。
 秋の月見の風習で、本来ならば庭の池や川面に映る月を愛でるものなのだが、ここの庭先には池が無い。苦肉の策と言うわけだ。
 鳰と鸞は2人して盥に手を浸し、水の感触を愉しみながら月見をしていた。

「おい! 主! 見に来ぬか!」
 戸口で空の月を眺めていたら、鸞に呼びつけられた。
「ほれ、月が増えたぞ」
 鳰と鸞、それぞれが掌に水を(すく)いそれぞれに月が映っているのだという。他愛のないことだ、と笑みがこぼれた。
 鳰が面を上げた。
(「水を()くすれば月は手に在り」でしたね)
「『天上遙かにある月も、己の行いによって手に入れることが出来る』だったか?」
「何だそれは? 謎かけか?」
 鸞がキョトンとして俺と鳰を交互に見た。
「出来得るわけがないと思えることも、努力をすれば報われるということさ」
(白雀殿! 私、思いついたのですけれども!)
 鳰がすっくと立ちあがった。
(今度、阿比殿にお会いした時、施療院に来て下さいとお伝えください)
「え? 阿比殿に? 如何様な用事でか?」
 俺は驚いて目を瞬いた。
(折角両の手が付いたのです。阿比殿に琵琶を習いとうございます!)
「へ? 鳰が? 琵琶を?」
(はい! 琵琶を奏することが出来れば、私も遠仁を退けることができるやもしれませぬ)
「……ははぁ……なるほど」

 目から鱗だった。
 これまで鳰の身を護るために、鳰自身がどうこうするという考えは全くなかった。だったら、鳰の琵琶も用意せねばなるまい。城下に戻ったら探しておこう。

「解った。阿比は……多分まだ城下のあたりをウロウロしていよう。戻ったら、きっと探して伝えておこうぞ」
 
 そうだな。
 鳰の両腕も無事ついたことであるし、近々城下へ戻り、また次の遠仁を見つけなくては……。
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登場人物紹介

白雀(はくじゃく)

下級仕官の四男。戦では「花方」と呼ばれる切り込み隊の一人。

自他ともに認める朴念仁。堅物なくらいに真面目な性格。

新嘗祭の奉納舞ではトリを勤める舞の名手。

鸞(らん)

「久生(くう)」と呼ばれる魂を喰らう無形の神様。

白雀を気に入って自分の食物認定して付き纏う。

相手によって姿形を変えるが、白雀の前では5歳の童の姿でいることが多い。

傲岸不遜で態度がデカい上、戦闘能力も高い。

久生はもともと死者の魂を召し上げる役割を持つが、鸞の場合、生きている者から魂を引っこ抜くこともする。


波武(はむ)

実の名は「大波武」。成人男性を軽々背負える程の大きな白狼の姿の「尸忌(しき)」。

尸忌は、屍を召して地に返す役割を持つ神。

白雀の屍を召し損ねて以降、他に取られないように、何くれと力になる。

鳰(にお)

神に御身を御饌(みけ)に捧げる「夜光杯の儀」の贄にされ、残った右目と脳をビスクの頭部に納めた改造人間。

医術師の梟(きょう)の施療院で働いている。瀕死の白雀を看護した。

阿比(あび)

死者を弔う際に久生を呼び下ろす「謳い」。

屋代に所属しない「流しの謳い」を生業としており、波武、鸞とは古くからの知り合い。

遠仁相手に幾度となく修羅場を潜り抜けている。細かいことは気にしない性格。

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