ましらの神 9
文字数 1,226文字
なんだ。俺が出張ることは無かったではないか
俺は、やれやれと肩を落として頭を掻いた。
緊張しただけ無駄だった。
と、鞘が跳ねるカランと言う音がした。
見ると血走った目をして御館様が太刀を構えている。
「ええい! こうなったら主を娘毎切って捨てるまで!」
ああっと! ちょっと待った!
俺は急いで蓑笠を振り落とすと、渡りの端に手を掛けて羽目板の上に躍り上がった。渥 の主が手をひらめかせるのと俺が御館様の腰に跳び付いて押し倒すのとがほぼ同時だった。例の風が刃物のように空気を切り裂いて俺の頭上を飛んだ。
「これ! 邪魔立てするな!」
渥の主は迷惑そうに言った。
コヤツの手の間合いは鸞のアレと同じだ。
視線の先に飛ぶので俺でも充分見切れる。
「因果巡って妻を失った主の無念は解るつもりだ。だが、これ以上暴れて何の得があろう。御館様も、間違いを間違いとして償いをする気は無いのか?」
「間違い? そも、妖が人の娘を孕ますなど、大間違いではないか!」
俺の身体の下で錯乱した御館様が喚き散らす。
駄目だこれは。
渥の主を刺激するだけだ。
「手前はちぃと寝ておけ!」
俺は後ろから馬乗りになって御館様の首を絞めて昏倒させた。
背後で渥の主が子女を寝所へ送り返す気配がした。
「無念が解る? 随分と偉そうに御託を述べるではないか。この、ニンゲンごとき!」
耳に風きり音が届いた。咄嗟に身をかがめる。
「だから、暴れるなと言うておろうに」
かがめた姿勢のまま地を蹴って、一気に渥の主との間合いを詰めた。
渥の主の瞳がかッと燃え上がる。
「動くな! 蓮雀!」
やはりな……。名前を言霊として操る術だ。
だが、効かぬ!
思惑が外れて虚を突かれた渥の主に、俺は当身を喰らわせた。
渥の主はすんでで身を引き、俺の顔を張る。鋭い爪がかすめて、頬がジワリと熱を持った。
切れたか。
橡色の袍がぬらりとした滑らかな毛皮になり、ついに獺 がオオカワウソの本性を現した。
「うわ……でっか……」
思わず独り言が漏れた。俺と大きさが変わらない。
「おのれ、謀 ったな!」
開いた大口から涎の糸を引いて鋭い牙が覗く。俺は頬をぬぐった。
「公平を期すためよ。知恵失くしては妖に渡り合えぬ」
「ふん。小賢しい!」
獺は一旦身をかがめると、鋭い爪を煌めかせて躍りかかった。
爪の一撃を咄嗟に繰り出した合口で受け流す。
「私は、子女の腹の中にいる俺の子を守り通すぞ」
渥の主の言葉に心が揺れた。
渥の主のしておることは非道かもしれぬが、そこまで至る経緯には同情の余地がある。禁を犯した癖に反省の色もない人間の方が、この際責められるべきではないか。
「おい! こら! まて!」
不意に鸞の声が響いた。
急ぎ視線を動かすと、黒い塊が次々と塀を越してこちらにやってくるのが目に入った。
アレは……猿の群れ? なんで此処に?
一瞬、注意が逸れた。
その隙を、妖が逃すはずがなかった。
俺の喉笛に、渥の主の顎 が喰らいついた。
俺は、やれやれと肩を落として頭を掻いた。
緊張しただけ無駄だった。
と、鞘が跳ねるカランと言う音がした。
見ると血走った目をして御館様が太刀を構えている。
「ええい! こうなったら主を娘毎切って捨てるまで!」
ああっと! ちょっと待った!
俺は急いで蓑笠を振り落とすと、渡りの端に手を掛けて羽目板の上に躍り上がった。
「これ! 邪魔立てするな!」
渥の主は迷惑そうに言った。
コヤツの手の間合いは鸞のアレと同じだ。
視線の先に飛ぶので俺でも充分見切れる。
「因果巡って妻を失った主の無念は解るつもりだ。だが、これ以上暴れて何の得があろう。御館様も、間違いを間違いとして償いをする気は無いのか?」
「間違い? そも、妖が人の娘を孕ますなど、大間違いではないか!」
俺の身体の下で錯乱した御館様が喚き散らす。
駄目だこれは。
渥の主を刺激するだけだ。
「手前はちぃと寝ておけ!」
俺は後ろから馬乗りになって御館様の首を絞めて昏倒させた。
背後で渥の主が子女を寝所へ送り返す気配がした。
「無念が解る? 随分と偉そうに御託を述べるではないか。この、ニンゲンごとき!」
耳に風きり音が届いた。咄嗟に身をかがめる。
「だから、暴れるなと言うておろうに」
かがめた姿勢のまま地を蹴って、一気に渥の主との間合いを詰めた。
渥の主の瞳がかッと燃え上がる。
「動くな! 蓮雀!」
やはりな……。名前を言霊として操る術だ。
だが、効かぬ!
思惑が外れて虚を突かれた渥の主に、俺は当身を喰らわせた。
渥の主はすんでで身を引き、俺の顔を張る。鋭い爪がかすめて、頬がジワリと熱を持った。
切れたか。
橡色の袍がぬらりとした滑らかな毛皮になり、ついに
「うわ……でっか……」
思わず独り言が漏れた。俺と大きさが変わらない。
「おのれ、
開いた大口から涎の糸を引いて鋭い牙が覗く。俺は頬をぬぐった。
「公平を期すためよ。知恵失くしては妖に渡り合えぬ」
「ふん。小賢しい!」
獺は一旦身をかがめると、鋭い爪を煌めかせて躍りかかった。
爪の一撃を咄嗟に繰り出した合口で受け流す。
「私は、子女の腹の中にいる俺の子を守り通すぞ」
渥の主の言葉に心が揺れた。
渥の主のしておることは非道かもしれぬが、そこまで至る経緯には同情の余地がある。禁を犯した癖に反省の色もない人間の方が、この際責められるべきではないか。
「おい! こら! まて!」
不意に鸞の声が響いた。
急ぎ視線を動かすと、黒い塊が次々と塀を越してこちらにやってくるのが目に入った。
アレは……猿の群れ? なんで此処に?
一瞬、注意が逸れた。
その隙を、妖が逃すはずがなかった。
俺の喉笛に、渥の主の