爪紅 7
文字数 1,106文字
周囲を雪景色に囲まれた黒い湖沼を、ただ、黙って見つめていた。
都がこれの前でしばらく時を過ごす理由が何となくわかる。
時を、忘れる。
手足の感覚を失うほど冷えても、気付かないほどに忘我の境地に陥る。
鸞が、白湯でももらってくると厨へ下がった間、俺は拝殿の隅でぼんやりとしていた。
「白雀殿と……申したか」
嗄 れた、聞いたことのない声があがった。
ハッと振り返ると、禿頭の翁がつくねんと座していた。
「……は、影向 殿」
俺は慌てて居住まいを正した。
「其方 、……探しておるのは、ヒトだけか?」
影向は先日見たのと同じく目を閉じたままだった。
いや、これは、盲 ておられるのだ。
「城下から、子女がここへ来たのと同じくらいに、此処へ遠仁が来た。狂うた隙に憑こうと思うたのかもしれず。……だがの、子女が此処へ参ったので、乃公 が喰った」
子女というのは……都のことだろう。
では、影向が喰ったという遠仁は……?
「誠に異なものを喰ろうたものよ。贄を抱えておった」
「え? では……」
「……覚えがあるのだな?」
「………はい。『夜光杯の儀』で贄となった者の肉を集めております」
「ほう。難儀なことをなさる」
影向は、小さく頷いた。
「いかな恩義があるのか」
俺は、ゆっくりと瞬いた。
「心を……掬 くわれたれば」
「いと美 しき……心映えよ」
影向は皺だらけの手をそっと懐に差し入れて、何をか取り出した。
俺は、恐る恐る手を差し出して、影向から受け取った。
これまた小さな……小指ほどの肉であった。
「これは……」
「喉笛よ」
「如何に……礼を申し上げたら良いものか」
ここにも、鳰がいたのだ。
俺は影向の前に平伏した。
すっと影が差し、影向の暖かな掌が俺の頭に翳された。
「かような惨 い縁を断ち切ることで、酬いて欲しい。其方には負担を掛ける」
「は……」
影向も、事情を察して心を痛めておられたのだな。
「あれ? 変な格好で寝ておるのだな!」
背後から鸞の声がした。慌てて顔を上げる。つい先ほどまで目の先に御座 した影向の姿は跡形もなかった。
後頭部には、翳された手の温みが残っている。
手の内の鳰の肉を確認し、決して幻ではなかったことに安堵した。
「影向殿にお声掛けいただいたのだ」
「わー! ずるいぞ! 吾も会いたかった!」
盆の上に湯気の立った湯呑を持って、鸞は不満を露わにした。
「まだ、滞在の日はあるよ」
「ここで乞うて居れば会えるかの?」
「優しきお方なれば、きっとな」
鸞から、白湯を注いで熱いくらいの湯呑を受け取り、再び視線を黒く静まる湖沼に向けた。
「ここは……静かで良きところだな!」
「ああ……」
夏には如何様な様であるのか知らぬが、冬もまたよい。
都がこれの前でしばらく時を過ごす理由が何となくわかる。
時を、忘れる。
手足の感覚を失うほど冷えても、気付かないほどに忘我の境地に陥る。
鸞が、白湯でももらってくると厨へ下がった間、俺は拝殿の隅でぼんやりとしていた。
「白雀殿と……申したか」
ハッと振り返ると、禿頭の翁がつくねんと座していた。
「……は、
俺は慌てて居住まいを正した。
「
影向は先日見たのと同じく目を閉じたままだった。
いや、これは、
「城下から、子女がここへ来たのと同じくらいに、此処へ遠仁が来た。狂うた隙に憑こうと思うたのかもしれず。……だがの、子女が此処へ参ったので、
子女というのは……都のことだろう。
では、影向が喰ったという遠仁は……?
「誠に異なものを喰ろうたものよ。贄を抱えておった」
「え? では……」
「……覚えがあるのだな?」
「………はい。『夜光杯の儀』で贄となった者の肉を集めております」
「ほう。難儀なことをなさる」
影向は、小さく頷いた。
「いかな恩義があるのか」
俺は、ゆっくりと瞬いた。
「心を……
「いと
影向は皺だらけの手をそっと懐に差し入れて、何をか取り出した。
俺は、恐る恐る手を差し出して、影向から受け取った。
これまた小さな……小指ほどの肉であった。
「これは……」
「喉笛よ」
「如何に……礼を申し上げたら良いものか」
ここにも、鳰がいたのだ。
俺は影向の前に平伏した。
すっと影が差し、影向の暖かな掌が俺の頭に翳された。
「かような
「は……」
影向も、事情を察して心を痛めておられたのだな。
「あれ? 変な格好で寝ておるのだな!」
背後から鸞の声がした。慌てて顔を上げる。つい先ほどまで目の先に
後頭部には、翳された手の温みが残っている。
手の内の鳰の肉を確認し、決して幻ではなかったことに安堵した。
「影向殿にお声掛けいただいたのだ」
「わー! ずるいぞ! 吾も会いたかった!」
盆の上に湯気の立った湯呑を持って、鸞は不満を露わにした。
「まだ、滞在の日はあるよ」
「ここで乞うて居れば会えるかの?」
「優しきお方なれば、きっとな」
鸞から、白湯を注いで熱いくらいの湯呑を受け取り、再び視線を黒く静まる湖沼に向けた。
「ここは……静かで良きところだな!」
「ああ……」
夏には如何様な様であるのか知らぬが、冬もまたよい。