磯の鮑 9

文字数 1,065文字

「おい! 来たぞ!」
 更に数日たった頃、俺が魚虎(ぎょこ)から打物(うちもの)の手ほどきを受けている時、厩方(うまやかた)が息を急き切って知らせに来た。来たぞ、と言われても、何のことやらと魚虎と顔を見合わせていると、厩方はもどかし気に手振りをした。
「ほれ! 式部の!」
 ああ、烏衣(うい)とかいう姫か。
 今一ピンと来ていない俺を、魚虎がひょいとつまんで己の後ろに押し込んだ。部屋の隅で太刀の手入れをしていた(りゅう)が、さっと太刀を収めると、懐から篳篥(ひちりき)を取り出して魚虎の隣に座った。俺の姿は完全に2人の後ろに隠れてしまう。
(じゅん)ちゃんはジッとしててね。顔出しちゃ駄目よ」
 魚虎の背後にいる俺に水恋(すいれん)はそう言い含めた。いきなり、鶹が篳篥を吹き鳴らし始める。
 一体、何が始まったのだ?

 厩方が退いた後、廊下の奥から何やら言い争う声が聞こえてきた。
 一方は翡翠(ひすい)、今一人は……?
「もう! 何の騒ぎなの?」
 鞨鼓(かっこ)を叩きながら魚虎が声を上げると、戸が開いた。翡翠が部屋に入ってきたらしい。
「ホント! とんだ言いがかりですのよ!」
「言いがかりではないわ! (うぬ)がはっきり答えぬからよ!」
 翡翠と共に入ってきた女子は語気荒く言った。
「ふん。相変わらず雎鳩は趣味の悪い。従者の見目は、財と格の反映とはよく言ったものよ」
 どうやら精鋭の

のことを言っているらしい。実を取っているだけである。余計なお世話だ。
「団子の数が合わぬので、誰をか匿っておるのではと思うたのだが……」
 団子の数? 俺はゾッとした。
 先程、翡翠がオヤツを取りに行くと厨へ出向いたが、その時盆にのせた団子の数を見て、ここに居る人数を割り出したのか!
 鶹は、ピィーと篳篥の音を張り上げた。魚虎が鞨鼓で拍子をとりながら、器用に答える。
「妾が余分に喰いとうて翡翠に頼んだのじゃ! 他所の侍女のオヤツにまで難癖をつけるとは浅ましい! 大輔の姫君の名が泣きますえ!」
「はいはい。こちらは下々の部屋。御姫君の来るところではござりませぬよ」
 水恋が押し返しているようだ。
「烏衣様! 付いてこられておると思うたに、一体何に気を取られておいでか!」
 遠くから雎鳩の声が聞こえてきた。
 ああ、この女子が烏衣なのか。確かに常軌を逸しておるわ。それに……。
 俺は左の腕をさすった。確かに、あの時は無かった遠仁の気配がする。
 鴆はまだか? いつになったら帰ってくるのじゃ? と雎鳩を問い詰める声が遠ざかる。
 あれ? かの女子と顔を合わせたのはあの一度切りと思うたが、何がどうしてこうなっておるのだ? というか、もはや、どんな顔の女子であったかも思い出せぬのだが。
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登場人物紹介

白雀(はくじゃく)

下級仕官の四男。戦では「花方」と呼ばれる切り込み隊の一人。

自他ともに認める朴念仁。堅物なくらいに真面目な性格。

新嘗祭の奉納舞ではトリを勤める舞の名手。

鸞(らん)

「久生(くう)」と呼ばれる魂を喰らう無形の神様。

白雀を気に入って自分の食物認定して付き纏う。

相手によって姿形を変えるが、白雀の前では5歳の童の姿でいることが多い。

傲岸不遜で態度がデカい上、戦闘能力も高い。

久生はもともと死者の魂を召し上げる役割を持つが、鸞の場合、生きている者から魂を引っこ抜くこともする。


波武(はむ)

実の名は「大波武」。成人男性を軽々背負える程の大きな白狼の姿の「尸忌(しき)」。

尸忌は、屍を召して地に返す役割を持つ神。

白雀の屍を召し損ねて以降、他に取られないように、何くれと力になる。

鳰(にお)

神に御身を御饌(みけ)に捧げる「夜光杯の儀」の贄にされ、残った右目と脳をビスクの頭部に納めた改造人間。

医術師の梟(きょう)の施療院で働いている。瀕死の白雀を看護した。

阿比(あび)

死者を弔う際に久生を呼び下ろす「謳い」。

屋代に所属しない「流しの謳い」を生業としており、波武、鸞とは古くからの知り合い。

遠仁相手に幾度となく修羅場を潜り抜けている。細かいことは気にしない性格。

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