千里香 8

文字数 1,192文字

 ソレがこちらに飛び掛からんと身構えたところで、鸞は右手指を弾いた。鼻っ柱が血煙を上げたが、それしきで止まることなくソレはこちらに猛烈な速さで突進してくる。
「ははは! 腐っても熊よの!」
 笑い事ではないと思うのだが、鸞は愉し気に笑って俺を突き飛ばした。俺の身体がふわりと宙に浮き、ソレの爪が空を切った。次の瞬間、俺の身体は脇の雪だまりに埋まる。
 再び熊の腕が振り上げられた折、鸞が手刀を切るように左手を振り下ろした。熊の右前足の関節がメキョッと嫌な音を立てて逆向きに折れ曲がる。ソレは苦痛の咆哮を上げて上半身を捻った。辺りに雪煙が巻きあがる。
「ふう。さすがに(みずち)の時ほど簡単にはゆかぬ」
 大儀そうに言いながらも、鸞は舌なめずりをしていた。次は何処を痛めつけてやろうかという表情(かお)だ。この(たち)はどうにもならぬのか……。
 内心溜息を付きながら、俺は立ち上がって合口を抜いた。
 鸞の右手が顔の左半分を吹き飛ばし、さすがにソレの脚が止まった。吹き飛んだクチからしゅわしゅわと音を立てて、何かが抜けていく。
「白雀! これから

ぞ。用意は良いか?」
「ああ」
 鸞は右手を掲げて糸を引くように動かした。ソレのクチから白い塊がスイッと抜けてこちらに飛んでくる。
 俺は合口を構えて待ち受けた。
 合口の刃は――(うかり)は、白い塊をスパンと両断した。
 塊の抜けたソレは、しゅわしゅわと音を立てて雪の上にほどけていく。
 俺の左腕がドクンと脈打つ。
 ソレの身体からフワフワといくつもの遠仁が浮かび上がってきた。
 どれが……鳰の肉を持っているんだ?
 ええい! わからん! この際全部喰ってしまえ!
 俺は左手の包帯をほどくと、掌を開いて全ての遠仁を吸い込み始めた。
「ん? ああ?」
 何かが左手にぶち当たった。でかい。そして、硬い。
 何だこれは? と右手で掴む。
「背骨か?」
 俺が手にしたものを覗き込んで鸞が首を傾げる。
「おわ! 何? また?」
 次に掴んだのは、肋骨……いや胸郭か。
 また、取り除くとまた手応え!
 どうなってるんだこれは!
 コイツ、鳰の肉を選んで次々喰うておったということなのか?
 遠仁を総て吸い込むまでに鳰の骨がどんどん積み上がった。
「全部で……幾つであったか?」
「五つじゃな。ちいと待てよ。今組み上げているところじゃ」
 組み上げる? 俺は包帯を巻きなおす手を止めて、鸞の方を見た。
 鸞は、それぞれ膜に包まれていた骨を手の内で組み合わせている。
「ほれ、これが背骨でここに胸郭を合わせ……、これが鎖骨であろう? それから、この貝殻のようなものが肩甲骨。して、……いやぁ、赤子のモノだと小さいのう。骨盤じゃな」
 俺は目を瞬いた。
「これは……」
「ふむ。コヤツは鳰の体幹の骨を総て喰うていたことになるの」
 俺と鸞は尸忌の成り損ないへと目を向けた。まだ、しゅわしゅわと音を立てているソレは、ただ骨を残すのみとなっていた。
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登場人物紹介

白雀(はくじゃく)

下級仕官の四男。戦では「花方」と呼ばれる切り込み隊の一人。

自他ともに認める朴念仁。堅物なくらいに真面目な性格。

新嘗祭の奉納舞ではトリを勤める舞の名手。

鸞(らん)

「久生(くう)」と呼ばれる魂を喰らう無形の神様。

白雀を気に入って自分の食物認定して付き纏う。

相手によって姿形を変えるが、白雀の前では5歳の童の姿でいることが多い。

傲岸不遜で態度がデカい上、戦闘能力も高い。

久生はもともと死者の魂を召し上げる役割を持つが、鸞の場合、生きている者から魂を引っこ抜くこともする。


波武(はむ)

実の名は「大波武」。成人男性を軽々背負える程の大きな白狼の姿の「尸忌(しき)」。

尸忌は、屍を召して地に返す役割を持つ神。

白雀の屍を召し損ねて以降、他に取られないように、何くれと力になる。

鳰(にお)

神に御身を御饌(みけ)に捧げる「夜光杯の儀」の贄にされ、残った右目と脳をビスクの頭部に納めた改造人間。

医術師の梟(きょう)の施療院で働いている。瀕死の白雀を看護した。

阿比(あび)

死者を弔う際に久生を呼び下ろす「謳い」。

屋代に所属しない「流しの謳い」を生業としており、波武、鸞とは古くからの知り合い。

遠仁相手に幾度となく修羅場を潜り抜けている。細かいことは気にしない性格。

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