釣瓶 8
文字数 1,079文字
正直、花街なぞ足を踏み入れたことも無かった。
余裕のある同輩ならいざ知らず、貧乏仕官にそのような余裕があるわけもなく。何をするところであるのか知らないわけでは無い。が、元より「飲むなら独り」の質 。女を交えての座敷遊びなど考えただけでもげんなりする。金を積んで接待を受けるのもしっくりこない。
なので、目の前の雀鷂 が「且つての花街一である」と言われても、全然ピンとこない。だが……
「今まで生きてきた世界で、己の価値が無うなったのを認めるのは……辛いよな」
威嚇する獣のごとき顔で怒りを露わにしていた雀鷂が、ハッと息を止める気配がした。
「俺も……覚えがある」
身を起こして、乱れた衿を掻き合わせた。
「且つて俺は、戦場で味方の活路を切り開く切り込み隊の花形であったのよ」
左腕を覆っていた包帯をグルグルと解いていく。
赤くぬめぬめと脈打つ網目の傷跡。
雀鷂の目が見開かれた。
「先の戦で重傷を負って、家族からも世からも捨てられた」
「なら、何故……」
「元の世界には戻れぬ。だが、次の世界で光を見た。其方も、……そうであれば、かような様にはならなかったのかも知れぬな」
「……」
「恥をかかせて悪かった。だが、……ソレに答えることは出来ぬ。ただ……」
俺は顔を上げて雀鷂を見た。
「雀鷂は……酒が、好きなのだな。満足させるほど付き合えるかはわからぬが、其の方の酒に呼ばれよう」
雀鷂の顔から険が溶け落ちた。
雀鷂は、肌から垂れさがる糸を断ち切り、開けた襟元を掻き合わせ剥げてめくれた肌を隠すようにすると、立ち上がって水屋へ向かった。
やがて、水を溜めた鍋を持って囲炉裏に掛ける。
「冷えるので、燗にしてよろしいか」
「うむ。雀鷂が美味いと思う酒を入れてくれ」
雀鷂は、儚い笑みで返すと、ちろりに入れた酒と、素朴な焼きの猪口を二つ持ってきた。
「吾が……酒を好むのは、酔うほどに下手な駆け引きを忘れるからよ。繕った建前が、酒に溶ける。口が軽くなって、腹を割って話せる。そんな気がしたからよ。……だが、ここではそんな酒は一度も飲めなかった」
破れた縫い目から乾燥して皺の寄り始めた肌は、雀鷂の歳をどんどん巻き上げた。
「この屋へ引き入れた者が、酒が回るにつれて遠慮が無くなるのよ。歳を経 り、衰えた我が身を悪し様に言いつのって嗤うのよ」
「『心を尽くしても』と、そう言ったな?」
雀鷂は俺を見た。
「どれほど花街で過ごしたのかは知らぬが、一人くらい居たのではないか? 尽くした心に応える者が」
「ああ…………」
涙を流し、顔を覆って俯く雀鷂は、先程の勢いは微塵もない。
哀れな独りの女子だった。
余裕のある同輩ならいざ知らず、貧乏仕官にそのような余裕があるわけもなく。何をするところであるのか知らないわけでは無い。が、元より「飲むなら独り」の
なので、目の前の
「今まで生きてきた世界で、己の価値が無うなったのを認めるのは……辛いよな」
威嚇する獣のごとき顔で怒りを露わにしていた雀鷂が、ハッと息を止める気配がした。
「俺も……覚えがある」
身を起こして、乱れた衿を掻き合わせた。
「且つて俺は、戦場で味方の活路を切り開く切り込み隊の花形であったのよ」
左腕を覆っていた包帯をグルグルと解いていく。
赤くぬめぬめと脈打つ網目の傷跡。
雀鷂の目が見開かれた。
「先の戦で重傷を負って、家族からも世からも捨てられた」
「なら、何故……」
「元の世界には戻れぬ。だが、次の世界で光を見た。其方も、……そうであれば、かような様にはならなかったのかも知れぬな」
「……」
「恥をかかせて悪かった。だが、……ソレに答えることは出来ぬ。ただ……」
俺は顔を上げて雀鷂を見た。
「雀鷂は……酒が、好きなのだな。満足させるほど付き合えるかはわからぬが、其の方の酒に呼ばれよう」
雀鷂の顔から険が溶け落ちた。
雀鷂は、肌から垂れさがる糸を断ち切り、開けた襟元を掻き合わせ剥げてめくれた肌を隠すようにすると、立ち上がって水屋へ向かった。
やがて、水を溜めた鍋を持って囲炉裏に掛ける。
「冷えるので、燗にしてよろしいか」
「うむ。雀鷂が美味いと思う酒を入れてくれ」
雀鷂は、儚い笑みで返すと、ちろりに入れた酒と、素朴な焼きの猪口を二つ持ってきた。
「吾が……酒を好むのは、酔うほどに下手な駆け引きを忘れるからよ。繕った建前が、酒に溶ける。口が軽くなって、腹を割って話せる。そんな気がしたからよ。……だが、ここではそんな酒は一度も飲めなかった」
破れた縫い目から乾燥して皺の寄り始めた肌は、雀鷂の歳をどんどん巻き上げた。
「この屋へ引き入れた者が、酒が回るにつれて遠慮が無くなるのよ。歳を
「『心を尽くしても』と、そう言ったな?」
雀鷂は俺を見た。
「どれほど花街で過ごしたのかは知らぬが、一人くらい居たのではないか? 尽くした心に応える者が」
「ああ…………」
涙を流し、顔を覆って俯く雀鷂は、先程の勢いは微塵もない。
哀れな独りの女子だった。