玉の緒 3

文字数 1,141文字

 夕闇がせまる頃、こっそり施療院の裏口から帰ると、鸞が桶に湯を入れて持ってきた。
「どうであった?」
「ああ。また、じわじわと数を増やしておったよ」
 冷えて感覚が鈍くなった手先を桶に()けて温める。
「あれから何か来たか?」
「いや! やはりアレはたまたまであったようだな! それはそうと、明日、呼びがかかったぞ!」
 感覚の戻った手で手ぬぐいを絞ってひとまず顔を拭った。
「鵠殿か」
 手ぬぐいで拭った面が見るとはなしに目に入った。
 あ、……やはり、飛沫を被っておったな。
「明日の、夕刻を希望であるよ!」
「うむ。相分かった……」
 湯に漬けた手ぬぐいから、ジワリと赤茶色の靄が溶けだし水面に広がった。

 厨から夕餉の香りが広がる。俺は、鳰に気取られぬようにこっそりと厨の前を通り過ぎたつもりだったが、後ろから声を掛けられた。
「あれ? おか

りか?」
「あ、ああ」
 ふいのことに戸惑いがちに振り返る。厨から顔を出した鳰は、何故だか怪訝そうに小首を傾げた。
「ふし

な……に

い」
 しばらく洞穴で過ごしておったからな。湿った土の臭いが染みておるやもしれぬ。そのまま通り過ぎようとしたら、鳰が俺の衣の裾を引いた。
「あ!」
「ん?」
「ちが!」
「ふぇ?」
 『ちが』って……何だ? 
「けが!」
「は? 俺?」
「みみ!」
 ああ、『ちが』って、『血が』ってことか。拭き損なっていたのだな。
 鳰は泡を喰って施療室の方へ駆けていった。
 ああ、これは、俺の血では無いのだが。

 鳰の後ろ姿に溜息を付いていたら、厨の中からブッシュウという勢いの良い音がした。
「えっ? おわ!」
 覗き込んだら鍋が噴いている。慌てて(かまど)の前に駆けつけ木の蓋を持ち上げた。左右を見回し、屑入れに溜まっていた里芋の皮を認めた。

 あ、えと、芋を煮ておったのか! それは噴きこぼれるわ!

 おたまで鍋をかき回して溜息を付いた。どうやら鍋の中身は汁物らしい。

 むう。これに醤油を入れるつもりだったのか味噌を溶けば良いのか……。

 思案していると今度は後ろから鸞に声を掛けられた。
「あれ? 主、部屋に戻ったのではなかったのか?」
「鳰がな、勘違いして手当の道具を……」
 俺が言いかけると、そこへバタバタと鳰が走り込んできた。消毒用の酒と綿、軟膏に包帯まで抱えている。
 華奢な両手に溢れる大荷物に、俺はげんなりした。
「いや、それはいくら何でも大袈裟であろう。時に、この汁物は何で調味するのだ?」
 鳰は、ハッとした顔をして鍋を見た。
「すまン! ふいた! いも! みそ! みそ

!」
 あまりの鳰の必死っぷりに俺は思わず吹き出した。
「分かった分かった! 慌てずともよいわ! 味噌だな」
 俺は屈んで棚の下の味噌壺を引き出した。鳰は両手がふさがって対応できず、俺の隣でしょぼくれていた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

白雀(はくじゃく)

下級仕官の四男。戦では「花方」と呼ばれる切り込み隊の一人。

自他ともに認める朴念仁。堅物なくらいに真面目な性格。

新嘗祭の奉納舞ではトリを勤める舞の名手。

鸞(らん)

「久生(くう)」と呼ばれる魂を喰らう無形の神様。

白雀を気に入って自分の食物認定して付き纏う。

相手によって姿形を変えるが、白雀の前では5歳の童の姿でいることが多い。

傲岸不遜で態度がデカい上、戦闘能力も高い。

久生はもともと死者の魂を召し上げる役割を持つが、鸞の場合、生きている者から魂を引っこ抜くこともする。


波武(はむ)

実の名は「大波武」。成人男性を軽々背負える程の大きな白狼の姿の「尸忌(しき)」。

尸忌は、屍を召して地に返す役割を持つ神。

白雀の屍を召し損ねて以降、他に取られないように、何くれと力になる。

鳰(にお)

神に御身を御饌(みけ)に捧げる「夜光杯の儀」の贄にされ、残った右目と脳をビスクの頭部に納めた改造人間。

医術師の梟(きょう)の施療院で働いている。瀕死の白雀を看護した。

阿比(あび)

死者を弔う際に久生を呼び下ろす「謳い」。

屋代に所属しない「流しの謳い」を生業としており、波武、鸞とは古くからの知り合い。

遠仁相手に幾度となく修羅場を潜り抜けている。細かいことは気にしない性格。

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み