羽化(鬼車退治後顛末) 1

文字数 989文字

 洞穴の中はただ、松明の爆ぜる密かな音がするのみ。
 鸞と波武は、息を殺して僅かな気配をさぐったが、熱を失った躰はもはや、ピクとも動かなかった。

「……逝って……しもうたのか」

 波武は、力なく項垂れた。
 鸞は亡骸(なきがら)のそばに屈みこみ、白雀の酸で焼け血反吐に汚れた唇を指で拭って、そっと口づけた。酸の飛沫を浴びた衣は焼け溶け、剥き出しになった肌は焼けたり擦り剝けたりしている。鳰の心臓を探った左腕は、例の傷跡すら分からぬほどに焼けただれていた。鬼車に蹴られた左の額は、皮膚が裂け、流れた血がべったり頬まで覆っている。それでも、きれいな右半分の顔は眠っているかのように穏やかだった。汗と血にまみれて乱れて張り付いた髪をそっと整えてやりながら、鸞がポツリと呟いた。

「波武……喰うてやれ」
「!」
 鸞の言葉に、波武は顔を上げた。
「お主、……白雀の肉で逝くのではなかったのか?」
 鸞は俯いたまま首を左右に振った。
「吾には……喰えぬ………」
「主は、長年待っておったのであろう? 白雀の魂を喰って主が置き換われば逝ける。吾は阿比を呼ぼう。此処までお膳立てをしておれば、阿比も否とは言えぬ」
「……いや、気持ちの問題では無いのよ」

 鸞は顔を上げた。
 波武は目を見開いて口元にグッと力を入れた。

「………泣いておるのか?」
「ああ、……吾は、泣いておるのか……」
 鸞は、少し驚いた顔をして己の顔を擦った。涙で濡れた己の手を見て、泣き笑いの表情を波武に向ける。
「……肉を損なわぬように魂を抜くのにな、……久生は口吸いをするのよ。白雀に出会った当初は手応えがあったのに、いつのまにやら動かぬようになった。……要は、白雀は、吾ら久生が喰えるものでは無うなってしまったのよ」
「と、いうことは……」
 波武は白雀の亡骸に視線を落とした。

 白雀の魂は……祖霊様の下へ帰れぬということだ。

「白雀の魂を押しのけて、吾が置き換わることは出来よう。それで、吾が逝くことは造作もない。でもな、……そうすると、白雀は、この世に残ることになるのよ。どのような様で残るのか、遠仁の様になってしまうのか……吾には解らぬが、そうなることが解っておるのに……吾は、白雀を置いていくことは出来ぬ」

 誰よりも、孤独の辛さを解っているから……。

「吾は、逝かぬよ。白雀に添うて生きようと、そう決めたのだからの」
 鸞はそう言うと、拳で涙をグシグシと拭った。
 
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登場人物紹介

白雀(はくじゃく)

下級仕官の四男。戦では「花方」と呼ばれる切り込み隊の一人。

自他ともに認める朴念仁。堅物なくらいに真面目な性格。

新嘗祭の奉納舞ではトリを勤める舞の名手。

鸞(らん)

「久生(くう)」と呼ばれる魂を喰らう無形の神様。

白雀を気に入って自分の食物認定して付き纏う。

相手によって姿形を変えるが、白雀の前では5歳の童の姿でいることが多い。

傲岸不遜で態度がデカい上、戦闘能力も高い。

久生はもともと死者の魂を召し上げる役割を持つが、鸞の場合、生きている者から魂を引っこ抜くこともする。


波武(はむ)

実の名は「大波武」。成人男性を軽々背負える程の大きな白狼の姿の「尸忌(しき)」。

尸忌は、屍を召して地に返す役割を持つ神。

白雀の屍を召し損ねて以降、他に取られないように、何くれと力になる。

鳰(にお)

神に御身を御饌(みけ)に捧げる「夜光杯の儀」の贄にされ、残った右目と脳をビスクの頭部に納めた改造人間。

医術師の梟(きょう)の施療院で働いている。瀕死の白雀を看護した。

阿比(あび)

死者を弔う際に久生を呼び下ろす「謳い」。

屋代に所属しない「流しの謳い」を生業としており、波武、鸞とは古くからの知り合い。

遠仁相手に幾度となく修羅場を潜り抜けている。細かいことは気にしない性格。

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