借り 6

文字数 775文字

「武楽舞の舞手の一人が緊張のあまり体調を崩しまして、代わりを『走り舞』担当の私が勤めることになったのです。それで、穴が開いた『走り舞』を舞えるものを探しておりまして……。つい、桟敷にいらっしゃる白雀殿に目が行ったというわけなのです」

 楽屋への廊下を走りながら、花鶏の説明を聞いた。武楽舞は素面なので誰が舞っているのか丸分かりだが、『走り舞』は仮面を付けるので誰が舞っているのかは判らない。

「で、花鶏が舞うはずだった『走り舞』の演目は?」
「『蘭陵王』です」
 何の因果だそれは……。
 俺は、固唾を飲んだ。
「白雀殿なら、鷹鸇殿の直伝。きっと勤めていただけますよね?」
「あ、ああ」

 途中で花鶏と別れ、俺は独り、走り舞の楽屋の内へと入った。番舞(つがいまい)の『落蹲(らくそん)』を勤める者は、まだ到着していないようであった。
 俺はさっさと女装を解くと、舞衣装を身に付け始めた。本来なら、介助の者が手伝うてくれるモノであるが、鷹鸇が「己でせよ」とよく言っていた。錦の袴をはいて裾の長い朱の袍を纏う。派手な毛縁の裲襠(りょうとう)を被って金帯を締める。牟子(むし)(かず)いて蘭陵王の面を付けた頃に、番舞の舞手が楽屋に入ってきた。

「おう! 花鶏と替わったのだったな!」
 
 名前は知らぬが、確か旗組の男だ。
 俺は黙って頷いた。
 袍の後ろに垂れる長い裾をさばいて床几(しょうぎ)に腰掛ける。耳には遠く、武楽舞の前奏である太食調(たいしちょう)の調子が響いた。
 武楽舞の別衣装は、蘭陵王より複雑だ。
 花鶏は無事準備を済ませたであろうか。
 ふと、後輩を労わる気持ちが蘇る。
 隊を離れてだいぶ経つというのに、不思議なものだ。

 昨年は、鸞に調子を取ってもらい、武楽舞を披露した。そして、思わぬところで遠仁となった鷹鸇に再開した……。
 何故、鷹鸇は堂々と『蘭陵王』の舞手を名乗らなかったのか。そうすれば、運命は些か違ったものになっていたかもしれぬのに……。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

白雀(はくじゃく)

下級仕官の四男。戦では「花方」と呼ばれる切り込み隊の一人。

自他ともに認める朴念仁。堅物なくらいに真面目な性格。

新嘗祭の奉納舞ではトリを勤める舞の名手。

鸞(らん)

「久生(くう)」と呼ばれる魂を喰らう無形の神様。

白雀を気に入って自分の食物認定して付き纏う。

相手によって姿形を変えるが、白雀の前では5歳の童の姿でいることが多い。

傲岸不遜で態度がデカい上、戦闘能力も高い。

久生はもともと死者の魂を召し上げる役割を持つが、鸞の場合、生きている者から魂を引っこ抜くこともする。


波武(はむ)

実の名は「大波武」。成人男性を軽々背負える程の大きな白狼の姿の「尸忌(しき)」。

尸忌は、屍を召して地に返す役割を持つ神。

白雀の屍を召し損ねて以降、他に取られないように、何くれと力になる。

鳰(にお)

神に御身を御饌(みけ)に捧げる「夜光杯の儀」の贄にされ、残った右目と脳をビスクの頭部に納めた改造人間。

医術師の梟(きょう)の施療院で働いている。瀕死の白雀を看護した。

阿比(あび)

死者を弔う際に久生を呼び下ろす「謳い」。

屋代に所属しない「流しの謳い」を生業としており、波武、鸞とは古くからの知り合い。

遠仁相手に幾度となく修羅場を潜り抜けている。細かいことは気にしない性格。

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み