第110話 お盆の出来事 5

文字数 2,535文字

ひーこらと年齢の限界を感じつつ、伝さんを連れて何とか吉井さんちまで走り通した俺って偉いかも。あー、もー、汗だく。

「伝さん、お疲れ! 今日は大活躍だったな」

「おんおんっ!」

裏門の鍵を開け直して庭に辿り着いてから、俺はもう一度伝さんを褒めた。息が上がって、ぐるじー。俺も自分を褒めてやりたい。

ぜいぜい息を弾ませつつ、伝さんを散歩用のリードから庭用の長い鎖に繋ぎ直す。水入れを洗い、きれいな水でいっぱいにして足元に置いてやると、喉が渇いていたんだろう、伝さんはものすごい勢いで飲み始めた。

それがあんまり美味そうで、俺もついビールが飲みたくなった。が、この後まだ予定があるんだ。我慢我慢。

伝さんが水に夢中のあいだに、高級ドッグフード・超大型犬用を用意する。けっこう運動したし、昨日よりちょっと多めに入れてやるか。

「ほーら伝さん、晩ご飯だ」

「おんっ!」

元気良く尻尾を振って、伝さんは俺が餌入れを置くのを行儀良く待っている。……実はこれが俺にとって、緊張の一瞬だ。

「いいかい、伝さん?」

「おん」

「ちょっと待てな?」

「おん」

出来るだけ普段通りに、甘やかさないように。それが吉井さんの指示だ。早く食べたい伝さんと、早く食べさせてやりたいけど「待て」をさせないといけない俺。期待に満ちた目で俺を見上げる伝さん。

いーち、にぃ、さぁん、しぃ、ごぉ、ろぉく、しぃち、はぁち……ああ、もうダメだ。

「よし!」

へたれな俺が十を待たずにそう言うと同時に、伝さんは特大の餌いれに顔を突っ込んだ。

晩飯を済ませた伝さんの巨体に丁寧にブラシを掛けると、俺は後片付けをして吉井邸(っていうのがふさわしいよな、あの家)の庭を出た。

グレートデンは短毛だから、ブラッシングが楽でいい。気持ち良さそうにじっとしている伝さんの全身をもう一度チェックしてみたが、ヨリコ・パパを受け止めた時のダメージはやはりなさそうでほっとした。

「また明日な」と頭を撫でると、伝さんは寂しそうにすんすんと鼻を鳴らした。でっかい図体のくせして、甘えん坊で寂しん坊。上目遣いの濡れた目で、俺を篭絡しようと図る。ふっ、負けないぞ! ……明日は朝もう少し早目に来て、散歩に連れて行ってやるか。

さてと、次の仕事に行きがてら、一応ポリ袋に採っておいた伝さんのオシッコを獣医さんに預けておくことにしよう。見たところ異常はなさそうだけど、素人判断は禁物だ。

伝さん行きつけの獣医院は夕方の診療時間真っ最中だったが、受付で事情を話して尿の検査をお願いした。顔見知りの受付事務員は、検査の結果、もし異常があればすぐに俺の携帯に連絡をくれると請合ってくれた。これでひとまず安心だ。

何となくほっとしつつ、俺はその足で駅前のニコニコ学習塾に向かう。本日最後のお仕事、高田さんちの祐介くんのお迎えだ。この街で何でも屋を始めて数年。大切な子供の送り迎えを任せてもらえるくらいの信用を築いてきたことを、我ながら誇りに思う。

高田さんちから塾までの道の途中、高架下をくぐる途中に小さな空き地がある。低木と草に覆われたそこは、昼間見るとどうということはないが、夜になるとちょっと物騒かなと俺でも思う。

でも、ここって実は猫の溜まり場だったりするんだよな。たまに十匹くらい居たりするが、あれがいわゆる「猫の集会」ってやつだろうか。家出猫・迷い猫をここで見つけることも多い。もしかしたら、猫の喜ぶマタタビの木でも生えてるのかな?

そういえば、キウイフルーツってマタタビの仲間らしいな。キウイで猫が寄ってくるかも? 今度迷い猫捕獲の依頼が入った時、試してみよう。

などと考えながら歩いていると、塾の入ってるビルが見えてきた。こちら側は裏通りになるので人通りは少ないが、子供の多く出入りする道ということで、街灯が多く設置されている……はずなのに、何だどうしたんだ今日は。暗いじゃないか。

停電、のはずはないな。周囲のビルの明かりは消えてないし。街灯の方が壊れてるのかも。これはすぐに修理してもらわないと、街の灯のありがたみが……。

お、ちょうど授業が終わったのか、子供たちが出てきた。祐介くんはどこだ。んー、あの一際小さな影。間違いないな。

距離はまだ離れているが、俺は祐介くんに声を掛けようと大きく息を吸い込んだ。その時──。

何だ、あいつは。どっから出てきた? 

子供たちが出てくるのを待っていたかのように、どこからともなく怪しい人影が現れたのだ。どうして怪しいと思ったかって、それは「カン」だと言うしかないが、とにかく不審な人物だった。

まだそんなに年のいっていない……若い男? そいつがフラフラと子供たちに近寄っていく。──俺は無意識に走り出していた。

「きゃー!」

女の子の悲鳴。男がその子を乱暴に抱え上げたのだ。突然のことに驚いて、声もなく固まる周囲の子供たち。逃れようと、女の子がバタバタ手足を動かす。落としそうになって苛ついたのか、男は女の子の腕を掴んだままいったん地面に下ろし、反対側の手を振り上げて──。

女の子の顔に打ち下ろされる寸前、俺はその手を掴んだ。
間に合った!

「皆、ビルの中に戻れ!」

息を弾ませながら叫ぶ。子供たちは呪縛から解き放たれたように一斉に悲鳴を上げながら、今出てきたばかりのビル出入り口に走り込んで行った。掴まれていた女の子も逃げた。良かった、走れるんだ。

「わっ!」

ほっとしていると、腕を振り払われた。何て力だ。俺は跳ね飛ばされ、尻餅をついてしまった。

「うーっ! うーっ!」

異様な声を上げながら、男はギラついた目で睨みつけてくる。睨んでいるのにどこか視線が外れているような、小石のように無感動な目。

そんな目を、昔見たことがある。

両親と弟と俺と。四人家族のささやかな幸せを、一瞬にして粉々に砕いた、あの目。

「グォーッ!」

人間とは思えない叫び声とともに、男は大きなナイフを腰のベルトから抜き放ち、俺に向かって振り上げた。

遠くの街灯の光に浮かび上がる、サバイバルナイフの無慈悲な輝き──。
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