第86話 エピローグ ドイツ語の手紙

文字数 1,804文字

俺は悩んでいた。

目の前には年賀状。ただし、書かれているのはドイツ語。

大学時代の恩師からのものだ。一般教養の語学選択からドイツ語を選んだ俺だが、当時、そのことを物凄く後悔したものだ。──選んだのが英語でもフランス語でもイタリア語でも、同じくらい後悔したと思うが。

「ベルンシュタイン先生、日本語ぺらぺらのくせに……」

そう。近頃の若いモンよりよほど日本語が堪能なくせに、この先生はドイツ語でしか話してくれなかった。お陰で、グーテンモルゲンとグーテンターク、グーテナハトだけは今も覚えている。あるいは、それしか覚えていないとも言う。

前の会社をリストラされたあたりからうっかりしていたが、俺には誰からも年賀状が来なくなっていた。あ、智晴とここの大家でもある友人からは届いてたか。それが、何故今頃?

「ん? んー?」

アドレッセがどうしたって? 俺は絵葉書の端に書かれた恩師の読みやすい文字を何度も読み返した。ん? 大学時代、年上の同窓生だった友人の名前が書かれている。「私は 知った 君の住所を 彼から」……あー、友人から俺の今の住所を知ったってことかな? やつはここの大家だもんな。そら住所も知ってるわな。

「ってことは、彼がわざわざ先生に教えたってこと、か?」

俺はひとり呟いた。それにしても、何で今頃? 俺は何となく壁に掛けたカレンダーを見た。うちのお得意様の一人、結城さんちのおばあちゃんにもらったものだ。あ、年明けたのに、まだめくってない。

いかんいかん、早くめくらないと、ここだけ去年のままじゃ、今年が来ないじゃないか。

「よっこいしょ、と。……あ」

俺はカレンダーの表紙をめくろうとしたままの姿勢で、しばし固まった。そこには小さく旧年十二月のカレンダーがついている。

十二月の二十二日は、冬至。

そして、六月二十二日は夏至。つまり、あの一年で一番長い日──俺にとっては一生で一番長かったかもしれないあの日々から、半年と少し。

あれをきっかけに、俺の身の周りを取り巻いていた危険は解消されたと、友人は言っていた。……だからか。だから懐かしい人たちに俺の住所を知らせてくれたのか。やつは。

おそらく、それまではごく身内の者にしか俺の居所を知らせないようにしてたんだ。元妻とか元義弟の智晴とか。このビルもどきに引っ越したのは、リストラに続く離婚で精神的にへろへろになっている頃だった。だから、書類ものは全部、大家である友人に任せてしまっていた。つまり友人には、それ以外の人間に対して俺を「行方不明」にすることが可能だったんだ。

俺の周囲から危険が取り除かれ、安全になるのを確かめて、友人は俺の「行方不明」扱いを解いてくれたんだろう。

だからこそ。

今俺の手元に、ベルンシュタイン先生のドイツ語のものの他にも、いくつもの懐かしい名前の年賀状があるのだ。

それにしても──。

ここに至るまで、何も気づいてなかった俺って一体……。あの頃のことは、今でも思い出そうとすると、頭にぼーっと霞がかかったようで記憶があやふやだ。年賀状が来なくなったのは、単純に引越しをしたせいだと思ってた。そういえば、転居届けってのも出さなかったような気がする。一切合財を友人に任せっきりだった。

ダメじゃん、俺。
ぼんやりしてるにもほどがある。……友人の心遣いにすら気づかないなんて。

鈍感で鈍すぎる己が情けなさすぎて、つい、ぶつぶつ呟く。いや、ぼやいてしまう。

何か、悔しい。守られてばかりで。しかも、やつは礼すら言わせてくれないんだ。今回のことだって、絶対「何のこと~?」とかはぐらかされてしまうだろう。

友人は、そういうやつだ。あの<ひまわり荘の変人>は。

「くそっ……!」

誰にともなく毒づき、俺は鼻をすすった。ええい、目から汗が出る。正月早々、何で……泣かされなきゃならないんだ。

「年賀状、まだ売ってるかな……」

俺はジャケットを着込んだ。郵便局がダメでも、コンビニにいけば様々な絵柄の年賀状が売られているはずだ。

友人の思いやりや厚意や、色んなものに応える第一歩として、とりあえず来た分だけでも年賀状を返そう。俺のことを覚えてくれている人たちに、近況を伝えよう。

会社をリストラされたけど、離婚だってしたけれど。それなりに幸福な毎日を送っています、と。
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