第81話 目覚めれば、そこに幸せが。
文字数 3,347文字
さて。
俺は今、独りでベッドに寝そべり、ぼーっとしている。
友人との会話の後、同じホテルのこの部屋に案内された。良く分からんがインペリアル・スイートとかで、最高級の部屋だという。
あまりにも広くて静かで、却って落ち着かない。
足の怪我は、待機していたホテルドクターの手によって、改めて治療と消毒を施された。全治一週間、らしい。それくらいの期間は、足裏に体重を掛けてはいけないと言われた。
本当はもう事務所兼自宅に帰りたかったけど、友人はにっこり笑って反対した。
──歩けないのに、あの部屋で独りで、どうするのかな? ん?
いや。まあ確かにその通りなんだけど。……笑顔でプレッシャーをかけてくる友人が、ちょっとコワかった。
それよりも怖いのが、ここの部屋代。
一泊で一体どれくらいかかるんだろう? 俺、今まで一般客室にしか泊まったことないから、この手の特別室は勝手がわからない──。
あ、違った。昨夜芙蓉たちと泊まったあの部屋も、ここほどじゃないけどかなり高そうだったな。けど、今思い出そうとしても、足の裏が痛かったとか風呂に入るのが大変だったとか、そういうことしか思い出せない。せっかくのデラックス客室だったのに、印象が薄い。
しょうがないか。そんなことより、弟の幻と出合ったことの方がインパクト強かったもんな……。
幻というか、意思。あるいは、残留思念。本当はただの記録映像だ。それは分かっている。だけど、俺たちはあの時、確かに会話を交わしたと思う。
一卵性双生児の神秘というやつかもな──。
そんなふうにわざわざ口に出してみて、自分を茶化す。
弟との会話は、いくら考えても謎が深まるばかりだ。このままぐるぐるしていても答はきっと出ないし、弟もそんなことは望まないだろう。
ぼーっとしていると、欠伸が出てきた。
ここ数日神経を張り詰めさせていたし、昨日は肉体的にも限界に近いくらい疲れた。心も身体も休養を求めているのかもしれない。
……双方の宿泊費は友人が出してくれるというし、もう悩むのはよしておこう。どちらのホテルにも年会費を払ってるから、かなりお得な条件で部屋を押さえられるって言ってたし。
俺はごそごそとベッドスプレッドをめくると、芋虫のようにシーツの中にもぐりこんだ。
ん~?
誰かに呼ばれたような気がして、俺はぼんやりと目を開けた。
完璧な遮光カーテンのお陰で、部屋は暗い。昼なのか夜なのか……。しばしそのままの状態で、微睡みと覚醒の間を行ったり来たりする。
ベッドがやたらに寝心地いい。そこに違和感。ああ、そうだ。ここは友人の用意してくれた豪華インペリアル・スイートルーム。ベッドだってハンパじゃなく広いのに、俺は端っこの方でちんまりと眠っていたようだ。
どうしてこう、大の字になって豪快に寝られないかな。我ながらびんぼー臭いと思いつつ、ゆるゆると起き上がる。足の裏に明確な引きつりを感じて、怪我のことを思い出した。しばらくは歩けないんだったっけ。とほほ。
と、寝室のドアを叩く軽い音と、先ほど夢の中で聞いた声が聞こえた。
「パパ~! まだおねむなの?」
え? ののか? ののかがどうしてここに!
「もう朝よ。いい加減、起きたらどう?」
あの声は、元妻?
何で? 何でふたりがここに? 俺は混乱しつつもベッドサイドの明かりを点け、傍に止めておいた車椅子にやっとの思いで乗り込んだ。両手で車を回しながらドアに向かう。動力を使うことを思いつかなかったあたり、かなり焦っていたんだろう。
外開きになるドアを開けると、眩しい光が差し込んで来る。反射的に目を眇め、動きを止めた俺の膝に、窓越しの明るい太陽の光をまとった小さい身体が飛びついてきた。
「パパ! だいじょうぶ?」
「ののか……」
俺は何だか夢を見ているような気分だ。
「パパ? あしがいたいの? かわいそう」
膝に抱きついていたののかが、ミイラのように包帯がぐるぐる巻きになった足を撫でてくれる。
「ののか……本当にののかなのか……?」
えっと。今日は面会日じゃなかったよな。
あれ?
と、ほっぺたを指の背でペタペタと叩かれた。ん?
「もしかして、寝ぼけているの? ののかに決まってるじゃない。あなた、自分の娘の顔を忘れたの?」
片手で無意識にののかの柔らかい髪を撫でながら、俺は声の主を見た。
「あ……!」
それは別れた妻だった。
あ、じゃないわよ。そうぶつぶつ言いながら、彼女はまた俺の頬を柔らかく叩いた。それは彼女の癖なのだ。
「さあ、お腹すいたでしょ? 昨夜は何も食べずに寝たんじゃない?」
そう言いながら、彼女はルームサービスらしいワゴンの上から料理の乗った皿を取り上げ、明るい窓辺に面した大きなテーブルの上に並べ始めた。
「見てよ、この素敵なテーブル。普段はきっと、この窓辺には何も置いてないはずよ。そこのソファセットのものだと車椅子には低いから、ホテル側に用意させたのね」
窓の向こうは空。さんさんと降り注ぐ光。遠くには高いビル。見晴らしは抜群だが、高所恐怖症の人間には辛いものがあるだろうな。
目が覚めたら、愛娘と元妻が。
にわかには信じがたい事態についうっかり心を飛ばしていたが、彼女の声に現実に引き戻された。
「どうしたの、あなた。あいかわらず、朝食べないとなかなか目が覚めないんだから。ほら、ちゃんとテーブルについて」
和食メニューをメインにしてもらったわ、と彼女は笑ってみせる。俺はののかを膝に乗せ、重くなった車輪をゆっくりと回して彼女の示す位置に移動した。
「ののか。パパのお膝から降りなさい。ほら、このおむすび見てごらんなさい、パンダさんとうさぎさんよ」
わーい、ぱんださんとうさぎさん! ののかが歓声を上げた。
見ると、小さなおむすびに海苔で模様をつけてパンダ、ご飯をうさぎの形に型抜きして、目は紅しょうが、からだ部分には桜でんぷをまぶして、ピンクのうさぎに作ってある。
「はい、パパ。うさぎさんのほうがかわいいから、パパにあげる!」
ののかが小さな手でうさぎおむすびを俺に渡してくれる。
「あ、ありがとうののか」
ののかはにこにこしている。
ああ……何か、じわじわと幸せがこみ上げてきたんだが、それに身を任せてもいいだろうか?
ひと口で、俺はうさぎおむすびを食べてしまった。久しぶりに会う緊張のせいか、いまいち味が分からない。だけど、これまでに食べたおむすびの中で、これが一番美味いと思った。
「はい、お味噌汁」
元妻が、大きめの汁椀をのせた薄い盆を俺の前においてくれる。箸置きにはきちんとした塗り箸。
「怪我したのが、両手でなくて良かったわね。ののかの前で、あーん、は嫌でしょ?」
くすくす笑う彼女の顔。窓から射す朝日に、目尻がきらりと光る。
涙を堪えながら、それでも笑って見せる。
ふくらんでこぼれそうな涙を人さし指でそっと拭い、彼女は言った。
「あなた、何て顔してるの?」
「え?」
その瞬間、頬に一筋、熱いものが流れた。
「あ、あれ? 俺、何で?」
俺、泣いてるのか?
そんなつもりないのに。視界がぼやけて、何も見えない。熱いものが、後から後から湧いてくる。何で? 泣く理由なんてないのに。
呆然としていると、頭にぱさっと何かを掛けられた。どうやら元妻がタオルを被せてくれたようだ。
「そうね、先に顔を洗ってすっきりしていらっしゃいよ。お味噌汁が冷めないうちに戻ってきて」
「パパ、どうしたの? かなしいの?」
心配そうな娘の声。俺はタオルの影でくすりと笑った。こういうのも泣き笑いっていうのかな。
「違うよ、ののか。パパ、悲しくなんてないよ。あくびをしたら涙が出ちゃっただけなんだ」
「パパ、よふかししたの?」
はやねはやおきしなくちゃダメよ。
幼い娘にそう叱られつつ、俺は車椅子を電動にして、これも広い洗面所に顔を洗いに行った。元妻は、落ち着くための時間を俺にくれたのだ。俺がののかに心配かけたくないの、知ってるもんな。
俺は今、独りでベッドに寝そべり、ぼーっとしている。
友人との会話の後、同じホテルのこの部屋に案内された。良く分からんがインペリアル・スイートとかで、最高級の部屋だという。
あまりにも広くて静かで、却って落ち着かない。
足の怪我は、待機していたホテルドクターの手によって、改めて治療と消毒を施された。全治一週間、らしい。それくらいの期間は、足裏に体重を掛けてはいけないと言われた。
本当はもう事務所兼自宅に帰りたかったけど、友人はにっこり笑って反対した。
──歩けないのに、あの部屋で独りで、どうするのかな? ん?
いや。まあ確かにその通りなんだけど。……笑顔でプレッシャーをかけてくる友人が、ちょっとコワかった。
それよりも怖いのが、ここの部屋代。
一泊で一体どれくらいかかるんだろう? 俺、今まで一般客室にしか泊まったことないから、この手の特別室は勝手がわからない──。
あ、違った。昨夜芙蓉たちと泊まったあの部屋も、ここほどじゃないけどかなり高そうだったな。けど、今思い出そうとしても、足の裏が痛かったとか風呂に入るのが大変だったとか、そういうことしか思い出せない。せっかくのデラックス客室だったのに、印象が薄い。
しょうがないか。そんなことより、弟の幻と出合ったことの方がインパクト強かったもんな……。
幻というか、意思。あるいは、残留思念。本当はただの記録映像だ。それは分かっている。だけど、俺たちはあの時、確かに会話を交わしたと思う。
一卵性双生児の神秘というやつかもな──。
そんなふうにわざわざ口に出してみて、自分を茶化す。
弟との会話は、いくら考えても謎が深まるばかりだ。このままぐるぐるしていても答はきっと出ないし、弟もそんなことは望まないだろう。
ぼーっとしていると、欠伸が出てきた。
ここ数日神経を張り詰めさせていたし、昨日は肉体的にも限界に近いくらい疲れた。心も身体も休養を求めているのかもしれない。
……双方の宿泊費は友人が出してくれるというし、もう悩むのはよしておこう。どちらのホテルにも年会費を払ってるから、かなりお得な条件で部屋を押さえられるって言ってたし。
俺はごそごそとベッドスプレッドをめくると、芋虫のようにシーツの中にもぐりこんだ。
ん~?
誰かに呼ばれたような気がして、俺はぼんやりと目を開けた。
完璧な遮光カーテンのお陰で、部屋は暗い。昼なのか夜なのか……。しばしそのままの状態で、微睡みと覚醒の間を行ったり来たりする。
ベッドがやたらに寝心地いい。そこに違和感。ああ、そうだ。ここは友人の用意してくれた豪華インペリアル・スイートルーム。ベッドだってハンパじゃなく広いのに、俺は端っこの方でちんまりと眠っていたようだ。
どうしてこう、大の字になって豪快に寝られないかな。我ながらびんぼー臭いと思いつつ、ゆるゆると起き上がる。足の裏に明確な引きつりを感じて、怪我のことを思い出した。しばらくは歩けないんだったっけ。とほほ。
と、寝室のドアを叩く軽い音と、先ほど夢の中で聞いた声が聞こえた。
「パパ~! まだおねむなの?」
え? ののか? ののかがどうしてここに!
「もう朝よ。いい加減、起きたらどう?」
あの声は、元妻?
何で? 何でふたりがここに? 俺は混乱しつつもベッドサイドの明かりを点け、傍に止めておいた車椅子にやっとの思いで乗り込んだ。両手で車を回しながらドアに向かう。動力を使うことを思いつかなかったあたり、かなり焦っていたんだろう。
外開きになるドアを開けると、眩しい光が差し込んで来る。反射的に目を眇め、動きを止めた俺の膝に、窓越しの明るい太陽の光をまとった小さい身体が飛びついてきた。
「パパ! だいじょうぶ?」
「ののか……」
俺は何だか夢を見ているような気分だ。
「パパ? あしがいたいの? かわいそう」
膝に抱きついていたののかが、ミイラのように包帯がぐるぐる巻きになった足を撫でてくれる。
「ののか……本当にののかなのか……?」
えっと。今日は面会日じゃなかったよな。
あれ?
と、ほっぺたを指の背でペタペタと叩かれた。ん?
「もしかして、寝ぼけているの? ののかに決まってるじゃない。あなた、自分の娘の顔を忘れたの?」
片手で無意識にののかの柔らかい髪を撫でながら、俺は声の主を見た。
「あ……!」
それは別れた妻だった。
あ、じゃないわよ。そうぶつぶつ言いながら、彼女はまた俺の頬を柔らかく叩いた。それは彼女の癖なのだ。
「さあ、お腹すいたでしょ? 昨夜は何も食べずに寝たんじゃない?」
そう言いながら、彼女はルームサービスらしいワゴンの上から料理の乗った皿を取り上げ、明るい窓辺に面した大きなテーブルの上に並べ始めた。
「見てよ、この素敵なテーブル。普段はきっと、この窓辺には何も置いてないはずよ。そこのソファセットのものだと車椅子には低いから、ホテル側に用意させたのね」
窓の向こうは空。さんさんと降り注ぐ光。遠くには高いビル。見晴らしは抜群だが、高所恐怖症の人間には辛いものがあるだろうな。
目が覚めたら、愛娘と元妻が。
にわかには信じがたい事態についうっかり心を飛ばしていたが、彼女の声に現実に引き戻された。
「どうしたの、あなた。あいかわらず、朝食べないとなかなか目が覚めないんだから。ほら、ちゃんとテーブルについて」
和食メニューをメインにしてもらったわ、と彼女は笑ってみせる。俺はののかを膝に乗せ、重くなった車輪をゆっくりと回して彼女の示す位置に移動した。
「ののか。パパのお膝から降りなさい。ほら、このおむすび見てごらんなさい、パンダさんとうさぎさんよ」
わーい、ぱんださんとうさぎさん! ののかが歓声を上げた。
見ると、小さなおむすびに海苔で模様をつけてパンダ、ご飯をうさぎの形に型抜きして、目は紅しょうが、からだ部分には桜でんぷをまぶして、ピンクのうさぎに作ってある。
「はい、パパ。うさぎさんのほうがかわいいから、パパにあげる!」
ののかが小さな手でうさぎおむすびを俺に渡してくれる。
「あ、ありがとうののか」
ののかはにこにこしている。
ああ……何か、じわじわと幸せがこみ上げてきたんだが、それに身を任せてもいいだろうか?
ひと口で、俺はうさぎおむすびを食べてしまった。久しぶりに会う緊張のせいか、いまいち味が分からない。だけど、これまでに食べたおむすびの中で、これが一番美味いと思った。
「はい、お味噌汁」
元妻が、大きめの汁椀をのせた薄い盆を俺の前においてくれる。箸置きにはきちんとした塗り箸。
「怪我したのが、両手でなくて良かったわね。ののかの前で、あーん、は嫌でしょ?」
くすくす笑う彼女の顔。窓から射す朝日に、目尻がきらりと光る。
涙を堪えながら、それでも笑って見せる。
ふくらんでこぼれそうな涙を人さし指でそっと拭い、彼女は言った。
「あなた、何て顔してるの?」
「え?」
その瞬間、頬に一筋、熱いものが流れた。
「あ、あれ? 俺、何で?」
俺、泣いてるのか?
そんなつもりないのに。視界がぼやけて、何も見えない。熱いものが、後から後から湧いてくる。何で? 泣く理由なんてないのに。
呆然としていると、頭にぱさっと何かを掛けられた。どうやら元妻がタオルを被せてくれたようだ。
「そうね、先に顔を洗ってすっきりしていらっしゃいよ。お味噌汁が冷めないうちに戻ってきて」
「パパ、どうしたの? かなしいの?」
心配そうな娘の声。俺はタオルの影でくすりと笑った。こういうのも泣き笑いっていうのかな。
「違うよ、ののか。パパ、悲しくなんてないよ。あくびをしたら涙が出ちゃっただけなんだ」
「パパ、よふかししたの?」
はやねはやおきしなくちゃダメよ。
幼い娘にそう叱られつつ、俺は車椅子を電動にして、これも広い洗面所に顔を洗いに行った。元妻は、落ち着くための時間を俺にくれたのだ。俺がののかに心配かけたくないの、知ってるもんな。