第27話 激昂

文字数 4,006文字

「この人にどう思われようが、もういいやって思えたんだ、あの時」

葵はふっきれたように笑う。

「なんでこの人とケンカなんてしてるんだろう、って。話しても言葉が通じない相手に怒っても、意味は無いんだって。そう気づいたんだよ。呪縛から解き放たれた気分?」

うーむ。酔っ払いの戯言でそこまで吹っ切れたとは。といってもビール一杯程度しか飲んでなかったはずなんだが……俺って実は酒に弱かったんだろうか。いや、……きっと疲れてたからだろう。

しかし、葵のそれはきっかけに過ぎないと俺は思う。きっと葵は意識しなくても心の底では既に分かっていたのに違いない。自分の相手にしているのが、言葉……心の通じない人間だということを。

「あなたを連れまわしたのは、その<気分>をはっきりしたものにしたかったからなんだ。父は父で、あなたの存在に(かこつ)けて俺を引き止めて、芙蓉と芙蓉の持つ情報の行方を、執拗に聞き出そうとしてたけどね」

「なんか、凄い高い酒も奢ってもらったみたいだな」

「あなた、とっても楽しそうに飲むんだもの。だから、いいお酒を飲ませてあげたくなるんだよ。美味いってにこにこ喜ぶ顔を見ると、もっと美味しいのを飲ませてあげようって気になるんだ。父ですらそう感じてたみたいだよ」

お、俺は蒲鉾をもらった猫か。……海苔とかやると喜ぶよなぁ、あいつら。

遠い目になりながら、俺は呟く。

「だけど、俺はそれを全然覚えてないんだよ。なんでだ。今までどれだけ飲んでも記憶を飛ばしたことなんかなかったのに……」

せめてその香りくらいは覚えていたかった。あの透明飴かけ餡ドーナツのようなボトル……。

「それはそうだろうね。だって、一服盛ったから」

「え? 今なんて言った?」

「一服盛った」

絶句する俺。なのに葵は涼しい顔をしている。

「い、い、い、一服盛ったって……」

俺、男で良かった。ののかが酒を飲める年になったら、知らない男とは絶対一緒に飲んではいけないと教えよう。

「安心して。そんなに変なものは飲ませてないよ。もうかなり酔ってたから、すぐに効いてきたし。幸せそうな寝顔だったなぁ」

「お、俺を眠らせてどうするつもりだったんだ~!」

どうするつもり? 死体(?)の隣に転がすつもり。
分かっていても、俺は叫ばずにいられなかった。

そういえば昔、「女房酔わせて、どうするつもり?」ってCMがあったなぁ……。

「あなたを眠らせてどうするつもりだったかっていうと、うーん」

葵は無意識にか、頬のあたりをポリポリと掻いた。

「とりあえず、かな?」

ののかや夏樹くんなら可愛らしく見えるだろう角度に、小首をかしげてみせる葵。だけどいくら美形だとはいえ、ハタチを越えた青年男子がやっても全然可愛くない。

「と、とりあえずで、初対面の人間相手に一服盛るな~!」

俺は本気でちゃぶ台返しをしたくなった。いや、目の前にあるのはちゃぶ台じゃないけど。ていうか、物凄く高級そうで、傷でもつけたりした日には弁償がコワイような代物なのだが。

「うーそ。嘘だよ。とりあえずってことはないよ?」

そんな非常識なこと、するはずないじゃない。そう言って葵は爽やかに笑って見せるが、信用できるもんか。こいつを少しでも知った今では、やたらと胡散臭く見えるにっこり笑顔を、俺は睨みつけた。

高山と、芙蓉&葵の双子。父と子という関係は破綻してるのかもしれないが、こいつら、似てるんじゃないのか? <笑い仮面>とにっこり攻撃×2。

怖い。怖いぞ。

「じゃあ、どういうつもりで俺を眠らせたっていうんだ?」

俺は声を低めて凄む。返答次第では……。

このテーブル、引っくり返してトンズラしてやる!

「あなたが葵たちと出会った夜の翌日、ちょうど夏至の日に……」

ぎりぎりと葵を睨みつける俺をふんわりいなすように、穏やかな声で芙蓉が話し始める。

「あたしたち、父がある取り引きをするっていう情報をつかんでいたのよ、このホテルの、ここと同じフロアで。あたしたちは、それを阻止したかった」

「……」

俺は芙蓉の顔を見つめた。

その唇にきれいに引かれたルージュの赤が、あの日を思い出させる。
真っ白なドレス、真っ黒な髪、真っ赤な唇と、そして……。

真っ赤な血。

俺は一瞬眩暈を感じ、片手で顔を覆った。

「あれは、何だったんだ? そうだよ、女は死んでた。胸にナイフが刺さっていたんだ。あの、血の量……。芙蓉……きみがここにいるなら、あれは誰だったんだ?」

「もちろん、あれもあたしよ」

驚くべきことを芙蓉は言う。

「……え?」

俺はしばらく呆けたようにその顔を眺めていたが、ハッとしてテーブルの下を見た。

「イヤね。幽霊じゃないわよ。足はちゃんとあるわ」

芙蓉はヒールの高い靴を履いた足を、組み替えて見せた。パールの入ったストッキングに包まれた、形の良い足。

「だって、あれは、あの死体は……」

俺は口をぱくぱくさせた。眩暈がするほどの大量の赤。真紅の悪夢。……胸に突き立っていた、銀色のナイフ。

「あのね、血の匂いはした?」

「血の、におい……?」

軽く溜息をつき、芙蓉は隣室に行って何かを持ってきた。

「それだけあの<演出>を信じてくれたんなら、逃げずに騒いでくれれば良かったのに」

そう言って、芙蓉は面妖なものを俺に差し出す。なんだ、このチューブに入った気色悪い赤いものは……。

あ。

「血糊……?」

俺は素っ頓狂な声を上げていた。

「そうよ、血糊よ」

芙蓉が駄目押しをしてくれる。

「あれは贋物の血だったのか? 全部? ホントに?」

「本当の血の方が良かったの?」

意地悪げに唇の端を上げる芙蓉。俺は耳に息を吹きかけられた猫のように、ぶるぶると必死に首を振った。

「ち、血糊でいい。っていうか、贋物の血でお願いします」

思わず敬語。
良かった……あの大量の血に見えたものがただの演出で。あれが本物なら、絶対失血死だ──って、演出?

「死んだふりしてたってこと?」

頭ではもう分かっていたが、俺は言葉に出して確認せずにはいられなかった。

「そうだよ、演出。言ってみればドラマのワンシーン?」

葵が言い添えた。

「ドラマって、」

唇を震わせる俺の反応など知らぬげに、葵は続ける。

「だから。あなたの役は、死体の第一発見者。それなのに騒いでみせる演技もせずに逃亡しちゃったんだから。役者失格だよ」

「俺は役者じゃない!」

俺は椅子を蹴って立ち上がり、葵を睨みつけた。激昂のあまり、呼吸が速くなって息が苦しい。

「俺は、俺は本当に驚いたんだ。これまでの人生で経験したことがないくらい……驚いたと同時に、怖かった……!」

あの時の衝撃が蘇る。その衝撃が大きければ大きいだけ、怒りが正比例して行く。

──あの血糊が人喰いアメーバで、こいつら二人纏めて飲み込まれてしまえば良かったのに──。荒唐無稽な考えが、怒りで真っ赤になった頭をかすめた。

「うん、ごめん。言い過ぎたね」

じっと俺を見つめていた葵が、頭を下げた。

「知らない場所で目が覚めて、そこで人が血まみれで動かなくなってるのを見たら、誰でもショックを受けて当然だよね」

ショックなんて、そんな生ぬるいもんじゃないっ! 俺はギリッと唇を噛み締めた。そんな生ぬるいもんじゃない。俺は、文字通り心臓が止まりそうなくらいの衝撃を受けたんだ。

殺した覚えはない。ないけど、もし本当に俺が殺したんだったらどうしよう、とか。そうだったとしたら、娘にどう謝ればいいんだ、とか。元妻や友人知人はどう思うだろう、とか……。

単純に、血まみれの死体を至近距離で見た恐怖以外に、心をよぎった諸々のこと。これによって自分の日常が百パーセント変わってしまうかもしれないことへの恐怖、やるせなさ。保身、愛着、後悔、自分への怒り。

ささやかに続くはずの明日を、突然失ったかもしれないと思った、あの絶望。

そんなものが、最大風速何千メートルくらいの規模で、俺の中を吹き荒れたと思ってくれてるんだ、こいつら。ハリケーンもびっくりだ。何万ワットの風力発電させるつもりだったんだ、おい。

「ふざけた言い方をして悪かったよ。ごめんなさい」

頭を下げたまま、葵が言葉を重ねた。芙蓉も「ごめんなさい」と呟き、下を向く。

と、その時、ベッドルームのドアが開いた。眠っていたはずの夏樹が、小動物のように顔を出す。俺の声で目が覚めたんだろう。自分の父と叔父、俺の顔を不思議そうに見つめている。

「え? お、おい……」

俺はびっくりした。ぱっと走り出したかと思うと、夏樹はなぜか俺の腰に抱きついたのだ。

「な、夏樹くん、どうしたの? パ、パパはあっちだよ?」

そうだよ、この子はなぜ父親じゃなくて知らない小父さんに抱きつくんだ。俺は思わずしゃがみこみ、子供と目を合わせてそのさらさらの黒い髪を撫でた。

夏樹は小さな手を俺の頬に伸ばした。

「おじちゃん、ないてる」

「え?」

俺は自分で顔を撫で回した。別に濡れてなどいない。

「おじさん、泣いてないよ?」

俺の言葉に、夏樹は子供らしいしぐさで首を振った。

「ないてるもん」

夏樹は今度は俺の首にしがみついた。

「かなしそうなかおしてる。おめめ、真っ赤だもん」

そりゃ、あの時のことを思い出して感情が昂ぶってて、色々ぐちゃぐちゃだし……泣きそうといえば泣きそうだけど。男がそう簡単に泣いてたまるもんか。そう思い、そっと小さな身体を離そうとすると、子供は言った。

「だって。ママがしんじゃったときのパパとおなじかお、おじさんしてるもん」
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