第87話 翌年の<俺>の父の日 前編
文字数 2,520文字
眠るつもりは無かったのに、ぼろソファの上でいつの間にかうとうとしていたようだ。
ノックの音が聞こえた時、慌てた俺はローテーブルの角で嫌というほど膝をぶつけてしまった。再びソファに沈み込む。痛い。痛いけど我慢だ。今日は娘のののかの来てくれる日。
コココココッ コココココッ
特徴のあるノックは元義弟の智晴。いつもののかの送り迎えをありがとうよ。
俺は足を引きずりながらドアまで歩いた。
「パパッ!」
ののかが俺に抱きついてくる。う、うれしい。けど、ぶつけた膝が痛い。が、ここは我慢だ。今こそ『顔で笑って心で泣いて』を実践する時!
「ののか! よく来てくれたね。あ~、また重くなったなぁ」
ののかはうれしそうに声を上げて笑う。ああ、このあいだ家出猫を探してる時に公園の隅で咲いていた、ミニひまわりにそっくりだ。見ているだけで元気になれる。
「義兄さん、ドアはすぐに開けてください。来るの分かってたでしょう、と、どうしたんです、足?」
ののかを抱っこしたまま頑張って歩く俺の後ろからついてくる智晴の、文句の口調が気遣うものに変わった。智晴は元妻の弟で、ののかの叔父に当たる。彼の姉と離婚した後も、月に一度はこうやって俺のところにののかを連れてきてくれるのだ。
「ちょっとそこの角でぶつけた」
俺はまだジンジンする痛みを根性で堪え、智晴に引き攣った笑みを見せた。
「パパ、あんよいたいの? だいじょうぶ?」
ののかが心配そうに聞いてくれる。くぅ、可愛いなぁ。たまにしか会えない父親を気遣ってくれるなんて、なんて優しい子なんだ。
「大丈夫だよ。ののかに会えると思うとうれしくて、パパ、ちょっと慌てちゃったんだ」
ののかの顔を見たら、痛いのなんか飛んでいっちゃったよ。
そう言って、ソファに座らせたののかににっこりしてみせる。本当は膝に乗せたいところだが、今は無理だ。
「……義兄さん、ちょっと冷や汗が出てるみたいですが?」
呆れたように智晴が言う。
本当にもう、すぐにやせ我慢するんだから。そんなことをブツブツ呟きながら、勝手知ったる何とやらで智晴は簡単に救急箱を見つけ、こっちに持ってくる。
職業柄(?)、俺はちょっとした怪我をすることが多い。不明ペット探しをよく請け負う関係上、家出猫を追いかけて民家の生垣に突進し、密集した枝で額を思いっきり突いてしまったり、かき分けた雑草で腕に切り傷をこさえたり、文鳥に鼻をつつかれたり、嘴で髪の毛を引っ張られたりしている。
あちこち打ったり、捻ったり、ぶつけたり。
考えてみれば、俺って小さな傷なら「千の傷を持つ男 ミル・マスカラス』にも勝てるかもしれない。しょぼくても傷は傷だしな。──まあ、そんなわけで、この何でも屋事務所に常備している救急箱の中身は、結構充実しているのだ。
「はい、義兄さん。湿布しましょうね。隠しても、その反応じゃあ、ぶつけた場所は確実に内出血してますよ。それはもう、きっとどす黒いほどに真っ青になっているはずです」
「うう、そこまでするほどのもんじゃない!」
俺は力なく抗議したけど、智晴は鼻で笑って取り合わない。くぅ、何て可愛げの無いやつだ。
「パパ、いたいのがまんしないで? パパがいたいと、ののかもいたいの」
トモちゃんのいうこときいて、しっぷ、はって?
娘に涙うるうるの心配そうな目で訴えられて、願いを却下出来る父親がいるだろうか。いや、いない。
心の中で反語的表現をしながら、俺は何に対してか敗北を認めた。
ひんやりとした感触と、薄荷に似た微妙なニオイ。
……ケチらないで微香性の湿布を買っといて良かった。
俺はあれから智晴から湿布を奪い取り、ののかには根性でにっこり笑顔を見せて、寝室にこもった。寝室といっても、他の部屋と同じくコンクリート打ちっぱなしの狭い三角形の小部屋で、パイプベッドを置いてあるだけだ。そこに座ってズボンを下ろしてみると、右太腿に濃ゆい紫色の打撲痕が……!
そりゃ、痛いわ。何というか、久々のクリティカル・ヒット?
俺は黙々と湿布の保護フィルムを外し、患部に貼り付けた。
ああ、じんわり……まだまだ痛い。痛いけど、歩けないことはない。俺は気合を入れて事務所に通じるドアを開けた。真っ先に心配そうなののかの顔が見える。俺はにへ、と笑って見せた。
うう、情けない。どれだけどんくさいんだ、俺。今日はせっかく父の日なのに。そいでもって、ののかと公園へ行く約束をしていたのに。
いや、俺はこれしきの痛みに負けない。ちょっと遠いけど、貸し出しボートに乗れる公園に行って、ののかと一緒に白鳥のボートに乗るんだ! ファイト、俺!
「待たせたね、ののか。さあ、パパと約束の公園に行こうか。白鳥さんのボート、乗ってみたいっていってたね」
「ねえ、義兄さん」
智晴が口を出してくる。何だよ? いつもののかを連れてきてくれるのは有り難いけど、今日は邪魔だよ、お邪魔虫。
「その公園て、自転車で一時間はかかるところなんでしょう?」
「おう。ののか用の子供シートにはちゃんとクッションを敷いてあるぞ」
俺は胸を張って答えた。ふふふ。少し前、粗大ゴミ置き場でまだ新しい自転車用子供シートを拾ったのだ。愛用のママチャリに、しっかりとそれを取り付けてある。もちろん、ののかを安全に乗せるためだ。
「その足で、しかも子供を乗せて一時間も自転車を漕ぐのは無謀ですよ。今回は諦めて、またの機会に連れていってあげればいいじゃないですか」
「やなこった!」
俺は智晴にあっかんべーをしてやった。当たり前だが、ののかには見えないようにやっている。それを見た智晴は、額に手を当てて何やら苦悩していた。ふん、大人げなくたって、構うものか。父の日に娘と過ごせるのがどんなにうれしいものか、お前には分からないだろう、この独身貴族め。
「ねえ、パパ」
娘の可愛い声に、自然に顔がにやける。
「なんだい、ののか。さあ、公園へ行く途中で、何か買っていこうか。ののかの好きなシュークリームの美味しいお店があるんだよ」
ノックの音が聞こえた時、慌てた俺はローテーブルの角で嫌というほど膝をぶつけてしまった。再びソファに沈み込む。痛い。痛いけど我慢だ。今日は娘のののかの来てくれる日。
コココココッ コココココッ
特徴のあるノックは元義弟の智晴。いつもののかの送り迎えをありがとうよ。
俺は足を引きずりながらドアまで歩いた。
「パパッ!」
ののかが俺に抱きついてくる。う、うれしい。けど、ぶつけた膝が痛い。が、ここは我慢だ。今こそ『顔で笑って心で泣いて』を実践する時!
「ののか! よく来てくれたね。あ~、また重くなったなぁ」
ののかはうれしそうに声を上げて笑う。ああ、このあいだ家出猫を探してる時に公園の隅で咲いていた、ミニひまわりにそっくりだ。見ているだけで元気になれる。
「義兄さん、ドアはすぐに開けてください。来るの分かってたでしょう、と、どうしたんです、足?」
ののかを抱っこしたまま頑張って歩く俺の後ろからついてくる智晴の、文句の口調が気遣うものに変わった。智晴は元妻の弟で、ののかの叔父に当たる。彼の姉と離婚した後も、月に一度はこうやって俺のところにののかを連れてきてくれるのだ。
「ちょっとそこの角でぶつけた」
俺はまだジンジンする痛みを根性で堪え、智晴に引き攣った笑みを見せた。
「パパ、あんよいたいの? だいじょうぶ?」
ののかが心配そうに聞いてくれる。くぅ、可愛いなぁ。たまにしか会えない父親を気遣ってくれるなんて、なんて優しい子なんだ。
「大丈夫だよ。ののかに会えると思うとうれしくて、パパ、ちょっと慌てちゃったんだ」
ののかの顔を見たら、痛いのなんか飛んでいっちゃったよ。
そう言って、ソファに座らせたののかににっこりしてみせる。本当は膝に乗せたいところだが、今は無理だ。
「……義兄さん、ちょっと冷や汗が出てるみたいですが?」
呆れたように智晴が言う。
本当にもう、すぐにやせ我慢するんだから。そんなことをブツブツ呟きながら、勝手知ったる何とやらで智晴は簡単に救急箱を見つけ、こっちに持ってくる。
職業柄(?)、俺はちょっとした怪我をすることが多い。不明ペット探しをよく請け負う関係上、家出猫を追いかけて民家の生垣に突進し、密集した枝で額を思いっきり突いてしまったり、かき分けた雑草で腕に切り傷をこさえたり、文鳥に鼻をつつかれたり、嘴で髪の毛を引っ張られたりしている。
あちこち打ったり、捻ったり、ぶつけたり。
考えてみれば、俺って小さな傷なら「千の傷を持つ男 ミル・マスカラス』にも勝てるかもしれない。しょぼくても傷は傷だしな。──まあ、そんなわけで、この何でも屋事務所に常備している救急箱の中身は、結構充実しているのだ。
「はい、義兄さん。湿布しましょうね。隠しても、その反応じゃあ、ぶつけた場所は確実に内出血してますよ。それはもう、きっとどす黒いほどに真っ青になっているはずです」
「うう、そこまでするほどのもんじゃない!」
俺は力なく抗議したけど、智晴は鼻で笑って取り合わない。くぅ、何て可愛げの無いやつだ。
「パパ、いたいのがまんしないで? パパがいたいと、ののかもいたいの」
トモちゃんのいうこときいて、しっぷ、はって?
娘に涙うるうるの心配そうな目で訴えられて、願いを却下出来る父親がいるだろうか。いや、いない。
心の中で反語的表現をしながら、俺は何に対してか敗北を認めた。
ひんやりとした感触と、薄荷に似た微妙なニオイ。
……ケチらないで微香性の湿布を買っといて良かった。
俺はあれから智晴から湿布を奪い取り、ののかには根性でにっこり笑顔を見せて、寝室にこもった。寝室といっても、他の部屋と同じくコンクリート打ちっぱなしの狭い三角形の小部屋で、パイプベッドを置いてあるだけだ。そこに座ってズボンを下ろしてみると、右太腿に濃ゆい紫色の打撲痕が……!
そりゃ、痛いわ。何というか、久々のクリティカル・ヒット?
俺は黙々と湿布の保護フィルムを外し、患部に貼り付けた。
ああ、じんわり……まだまだ痛い。痛いけど、歩けないことはない。俺は気合を入れて事務所に通じるドアを開けた。真っ先に心配そうなののかの顔が見える。俺はにへ、と笑って見せた。
うう、情けない。どれだけどんくさいんだ、俺。今日はせっかく父の日なのに。そいでもって、ののかと公園へ行く約束をしていたのに。
いや、俺はこれしきの痛みに負けない。ちょっと遠いけど、貸し出しボートに乗れる公園に行って、ののかと一緒に白鳥のボートに乗るんだ! ファイト、俺!
「待たせたね、ののか。さあ、パパと約束の公園に行こうか。白鳥さんのボート、乗ってみたいっていってたね」
「ねえ、義兄さん」
智晴が口を出してくる。何だよ? いつもののかを連れてきてくれるのは有り難いけど、今日は邪魔だよ、お邪魔虫。
「その公園て、自転車で一時間はかかるところなんでしょう?」
「おう。ののか用の子供シートにはちゃんとクッションを敷いてあるぞ」
俺は胸を張って答えた。ふふふ。少し前、粗大ゴミ置き場でまだ新しい自転車用子供シートを拾ったのだ。愛用のママチャリに、しっかりとそれを取り付けてある。もちろん、ののかを安全に乗せるためだ。
「その足で、しかも子供を乗せて一時間も自転車を漕ぐのは無謀ですよ。今回は諦めて、またの機会に連れていってあげればいいじゃないですか」
「やなこった!」
俺は智晴にあっかんべーをしてやった。当たり前だが、ののかには見えないようにやっている。それを見た智晴は、額に手を当てて何やら苦悩していた。ふん、大人げなくたって、構うものか。父の日に娘と過ごせるのがどんなにうれしいものか、お前には分からないだろう、この独身貴族め。
「ねえ、パパ」
娘の可愛い声に、自然に顔がにやける。
「なんだい、ののか。さあ、公園へ行く途中で、何か買っていこうか。ののかの好きなシュークリームの美味しいお店があるんだよ」