第59話 元義弟のお風呂介助は遠慮します。
文字数 3,709文字
「果汁百パーセントのオレンジジュースや、カスタードプリンもあったよ。もしお腹が空いてあの子が起きてきたら、はちみつ入りホットミルクでも作ってあげよう」
智晴は言った。
「大人はお茶でもコーヒーでもアルコールでも。義兄さんはビールでいいですね? 君たちは?」
「あんまりアルコールが欲しい気分じゃないな」
そう呟きながら、芙蓉は葵を見た。葵も同じ意見らしく、双子の兄に頷いてみせている。
「あなたはどうするの?」
芙蓉に問われた智晴は、小さく息をついた。
「僕は紅茶を。──僕も酒っていう気分じゃないから」
確かにな、智晴。あんまり疲れ果てるとそういう刺激物は欲しくなくなる。酒ってのは元気づけに最適だが、疲れの程度にもよるよな。これくらい疲れると、赤マムシドリンクでも飲まないとアルコールなんか喉を通らない。飲まないけど。
「あー、俺もビールはいいわ。何かあったかいもんが飲みたい。紅茶淹れるなら、俺も同じのでいい」
俺は足裏の怪我のせいもあってあまり動けないから、冷たいものを飲むと身体が冷えそうな気がする。何しろ、普段エアコンの効きの悪い部屋で寝起きしているからな。こういう空調の完璧な場所は、却って身体に悪いかもしれない──。
なんてな。単に、貧乏症なだけかもしれないけど。
かくして、大人四人は紅茶を飲みながら、黙々と夜食のテーブルを囲んだのだった。パッとしないがそれはしょうがないだろう。この場にいる全員が何者かに身の安全を脅かされているというし、別室で眠っているとはいえ子供もいるし。
これが最期の晩餐になったら、イヤだなぁ。
アボカドと海老のサラダを頬張りながら、俺はつい縁起でもないことを考えてしまった。
そんな状態で会話が弾むわけもなく、すぐに食事は終わってしまった。後はもう寝るだけだな。汗をかいたから、風呂に入りたいけど……。
俺は怪我した足をうらめしく思った。自力で立てないんじゃ、風呂になんか入れないじゃないか。他の三人がてきぱきと後片付けをしているあいだ、俺は悶々としてしまった。
「さて、義兄さんは僕とお風呂に入りましょうか」
……なんか、智晴のヤツ怖いことを言わなかったか? うっかり聞き流しかけたけど、脳がその言葉の意味を理解すると同時に、俺は全身を強張らせた。
銭湯や温泉なら分かるけど、ホテルのバスルームに男二人……。
俺はぶんぶんと頭を振った。あんまり振りすぎてくらくらする。が、そんなこと気にしている場合じゃない。
それはイヤだ。とってもイヤだ。
イヤだが風呂には入りたい。
俺は、僕と一緒にお風呂に入りましょうなどとほざいた元義弟を睨みつけた。銭湯とか温泉ならいい。広い湯船につかりながらのんびり雑談するのもいいだろう。だが、ホテルのバスルームっていうのは風呂桶しか無いだろう?
げげ。
……一緒に入るなら、キレイなおねーちゃんと入りたい。
「お、お前先に入れ。俺は後でいい」
「でも、両足を怪我してるでしょう?」
「いい! 他は大丈夫だから!」
「バスルームまで、逆立ちして行くつもりですか?」
「う……」
呆れたような智晴の声。何だ、その聞き分けの無い子供を見るような眼は。
「心配なのは分かるけど、彼の気持ちも考えてあげたら?」
微妙に険悪な俺たちの雰囲気に、それまで黙っていた葵が口を挟む。おう! もっと言ってやってくれ! 俺は期待をこめてそっちを見た。
「さっきあなたが彼をおぶっている姿を見たら、なんだか『楢山節考』を思い出しちゃったよ、俺」
がくっ。俺は心理的にずっこけた。ひ、ひどい、葵のやつ! 俺は姥捨て山に捨てられる年寄りかい!
思わず睨むと、葵の眼は笑っている。
「怪我は足の裏だけなんだし、両足をビニール袋で巻いてしまえばいいんじゃない? ほら、ちょうど服の入ってた袋が沢山あるし」
輪ゴムもあるよ、と彼はミニキッチンから取ってきたらしい色とりどりの輪ゴムを六つくらい渡してくれた。
「それに、この部屋のバスルームにはシャワーブースもあるよ。足が不自由な状態でバスタブだとそりゃ危ないかもしれないけど、シャワーブースならべったり座れるから、自分で身体を洗うこともできるでしょ?」
「そ、そうか……!」
俺は感動した。さすが、スイートルーム。一般客室とは仕様が違うのだな。
「シャンプーやバスソープは、座っていても取りやすいように床に置いてあげればそれでいいんじゃない?」
続けて提案する葵。智晴はついに口をへの字に結び、黙り込んだ。
見事だ、葵。智晴のやつをやり込めるなんて。一人ほくそえんでいると、諦めたように智晴が口を開いた。
「分かりました。じゃ、まずそのチノパンを脱いでくださいね。あ、下着もね」
「な、何で?」
「足をビニールでぐるぐる巻きにするんですよ? 先に脱いでおかないと、せっかく巻いたビニールが引っかかるでしょ?」
さ、と俺のチノパンのフロントに手を掛けようとする智晴。俺は慌ててソファの上をいざって逃げた。
「じ、自分で脱ぐから。その前に、バスタオルくれ」
「もう、怪我人のくせにワガママなんだから……」
「五月蝿いな。俺は男に服を脱がせてもらう趣味はない。ついでに露出趣味もない!」
それから俺は、何とかひとりでシャワーを浴びることに成功した。ここはカーペットの毛足も長い、リッチなスイートルーム。掃除だって行き届いている。何もおんぶしてもらわなくても、四つんばいで移動すればいいんだ。後はもう寝るだけだし、風呂上りにはガウンを羽織っておけばいい。
床の上を移動している姿はみっともないかもしれないが、気にしない。裸に近い状態でおんぶしてもらう方が百億倍イヤだ。何でかって……。男なら、分かるだろ? パンツ穿いてるならともかく、さ。
あー、もう、寝る。この部屋には、主寝室のほかにベッドルームが二つあった。後の三人が交代で風呂に入っている間に、俺はバスルームから一番近い寝室のセミダブルベッドにもぐりこんだ。今日は本当に色々あって、俺はもうへとへとだ。
清潔な枕に頭をのせ、肌触りの良い上掛けを顎まで引き寄せると、すぐに抗いがたい睡魔に襲われ、俺は墜落するように眠りに落ちた。
「わっ!」
勇ましいメロディにいきなり夢を蹴っ飛ばされ、俺は不覚にも声を上げてしまった。枕元に投げ出しておいた携帯から、どこかで聞いたような威勢のいいマーチが……。
♪じゃんじゃん じゃっがいも さつまいもっ!♪
ついそう歌いたくなる曲に、いっぺんに目が覚めた。慌てて画面を確認すると、案の定……。
<風見鶏>、あんたは一体何考えてんだ。ってゆーか、選曲の基準は何なんだよ? それより何より、俺の携帯の着メロを勝手に変えるのはやめてくれ。
はあ……。朝っぱらから疲れた。
着信メールの件名は、「起床時間です」
『おはよう、フェルプス君。そろそろ起きる時刻だ。本日の任務は追って連絡する。なお、これはテープではないので、自動的に消滅はしない』
読み終えた俺は、がくん、と肩を落とした。誰がフェルプス君だ。何でおはようメールが『ミッション・インポッシブル』のパロディなんだ。ってゆーか、これだと『スパイ大作戦』だろう。古いぞ。
まあ、「君及び君の部下が任務に失敗しても、当局は一切関知しないからそのつもりで」とか言われなかっただけマシか? あー、あれって『大江戸捜査網』と似てるかも。隠密同心、つまり、スパイの話だもんな。「死して屍拾うものなし」……縁起でもない。
それにしても、古い画面の中の梶芽以子は色っぽかったな。
って、そんなバカなこと考えてる場合じゃなかった。俺の足、どうなんだろう。一晩経って少しはマシになっただろうか? 確かめるべく、俺は恐る恐るベッドから足を下ろしてみた。ゆっくり体重をかけてみると……。
い、
体重さえかけなければ痛くはないのだが、ダメだ。こんなんじゃ、まだ自力で歩けない。俺は暗くなった。
さてどうするかとふとサイドボードに眼をやると、着る物一式置いてある。自分で用意した覚えはないから、智晴か双子のどちらかが用意してくれたんだろう。これは素直にありがたかった。何しろ、昨夜着たまま寝たガウンの下は、フルチンだからな。
何はともあれ服を身につけ、俺はやっと落ち着いた気分になった。下着とチノパンを穿くのには少々苦労したが、シャツを着るには問題はない。すっきりした襟のシャツは涼しげで、肌触りが良かった。もちろん、その下にはきちんと肌着を着用している。オトコの肌が透けて見えても見苦しいだけだからな。
と、いう俺のポリシーを知っていたのか、<風見鶏>。そんなこと、話したこともないけれど。
一応の身づくろいを終えた俺は、ずるずるとベッドから滑り降りると、四つんばいでこの部屋を出てリビングを目指した。
ん? まだ誰も起きてないのかな?