第136話 霜柱は、死体の上に育つ。 2

文字数 2,424文字

同時に、枯れ枝を踏む乾いた音がして、どこかの高校の制服だろうか、深緑色のブレザーに臙脂のネクタイ、チャコールグレイのスラックスという出で立ちの少年が、遊歩道を逸れてこちらに近づいて来るのが見えた。

伝さんの唸り声が、さらに低く、激しい威嚇を含んだものになる。

なのに、少年の足は止まらない。異様なほど無頓着に歩みを進める。得体の知れない恐怖を感じて、俺はなんとか声を掛けた。

「それ以上近づかないでくれるか? 犬が興奮してる。君に危害を加えるかもしれない」

「犬……?」

少年は立ち止まり、伝さんを見つめた。まるで感情のない、小石のような目。普通、伝さんクラスの大型犬に唸られたら恐怖を感じるもんだと思うが、どうやら彼は何も感じていないようだ。

「なあ、あんた、なんでそれ持ってるんだ?」

「え?」

唐突に、彼は言葉を発する。

「俺のだ。それ、俺のだ。横取りするつもりかよっ!」

無表情だった少年の顔に、突然憤怒の表情が現れる。どろりとした目が爆発的に見開かれたと思うと、いきなり制服のポケットから小型のナイフを取り出した。

冬の朝の冷たい太陽の光を受けて、銀色にきらめくそれ。
俺は思わず息を呑んだ。

その瞬間、伝さんの唸り声が一際大きくなった。ぐっと姿勢を低くする。今にも少年に飛びかからんとする、その姿。──害意を剥き出しにしてくる相手から、俺を守ろうとしてるんだ。

そうと気づいた時、とっさに俺は伝さんの首輪を渾身の力で掴んでいた。同時に、リードを腕に巻き取って、背後から抱えるようにしてその巨体を止める。

俺を守ろうとしてくれるのはうれしい。けど、俺だって伝さんを守りたいし、守らないといけない。伝さんは、吉井さんからの大切な預かりもの。怪我をさせるわけにはいかない。いくら伝さんが強い攻撃力を誇る犬でも、相手は刃物を持ってるんだ。

「やめろ! そんなもの、早くしまえ!」

俺は少年に向かって叫んでいた。

「この伝さんは超大型犬のグレートデンだ。君よりも大きいぞ。これ以上興奮させるな。襲われたらタダでは済まない」

「はぁ? うるせーよオッサン。俺のモン、返せ。返せよ!」

ダメだ、話が通じない。

迫る白刃、少年に飛びかかろうとする伝さん。俺は引き摺られそうになりながら必死にその巨体を押さえてる。けど、このままじゃぁ、伝さんも俺も危ない。

どうする? どうすればいいんだ、俺!

しがみつく巨体の、薄い毛皮の下の筋肉がしなる。いっそう力をこめて踏ん張ろうとした、その時。

「うわぁっ!」

足元が崩れ、妙な勢いがついた拍子に、俺は伝さんを抱えたままその場に倒れ込んだ。柔道で寝技掛けたみたいな感じだったんだと思う。

と、次の瞬間、どさり、という音がした。う、と呻き声が聞こえる。まだ伝さんを押さえ込んだまま、目だけでそっちを見ると、べしゃっと少年が倒れていた。そのすぐ脇に結構大きめの石が転がってて、どうやらそれに蹴躓いたみたいだ。

石は土まみれで……もしかして、さっき足元が崩れたのって、あの石の上で俺が踏ん張ったせいだったのか? ここ、ちょっとした斜面になってるし、転がった石がすごく良いタイミングで相手を足止めしてくれたようだ。

少年はしばらく動かなかったが、ゆっくりと顔を上げた。立ち上がろうとしたらしいが、またすぐ膝をつく。明らかに様子がおかしい。

その原因はすぐ分かった。

少年の右太腿が血まみれになっていたからだ。転んだ時、持っていたナイフが刺さったんだろう。そんな状態なのに、彼はまだ凶器を手放してはいなかった。

「何で……何で足動かねぇんだよ」

ぶつぶつと呟く少年の様子は、明らかに異様だ。

「あ? 何だコレ血か? おっかしいな、何で俺が怪我しなきゃなんねぇんだよ」

刃物持ったまま転んだんだから、自業自得ないんじゃないの? と突っ込んでもいいんだけど、今の彼には理解出来なさそうな気がするなぁ……。

そんなことを考えていたら。

少年が、ぎろりとその濁った眼を俺に向けた。

「お前、お前だな。お前が俺のこと刺したんだ」

その言い草には、さすがに俺も呆れた。

「そのナイフ、君のだろ? さっきからずっと自分で持ってたじゃないか。なのに、どうやって俺が君を刺すっていうんだ?」

「うるせぇよ。オッサン。じゃ、何かよ。俺が自分でやったってのかよ。おっかしーじゃねぇか」

おかしいのは、君の頭だと思う。

心の中でそう返しつつ、俺は何だかやりきれない気持ちになってきた。この少年、完璧に薬物依存症だ。大麻だけなのか……、それとも他のドラッグもやってるのかもしれない。

目つきが定まってない。首から妙に汗かいてる。何より、言ってることがおかしい。支離滅裂だ。

腕の中の伝さんが、また唸り声を上げる。太腿を痛めているはずなのに、もう片方の足で立ち上がり、自らの血で汚れたナイフをかざして少年はふらふらと俺たちに迫ってくる。

痛覚すら麻痺してるのか? もしかして、PPC、エンジェル・ダストとかいうやつをキメてるのか? 昔、漫画で読んだだけだから分からないけど。

現実逃避のようにそんなことを考えていたら。突然、自転車が急ブレーキを掛ける音が辺りに響き渡った。目だけでそっちを見ると、顔見知りの制服のお回りさんが駆けてくるところだった。

遠くの方からも、パトカーのサイレンが近づいてくる。

俺と伝さん、助かった?

はー、と溜息が出た。

「長い散歩になったなぁ、伝さん」

「うぅおん」

まったくだぜ、と伝さんは唸る。まだもう少し興奮が覚めてないみたいだ。俺を守ろうと、必死になってくれてたからなぁ。

「……ありがとうな、伝さん」

小さな声で呟くと、伝さんは大きな頭をもたげて、俺の顔をべろりと舐めてくれる。気にすんな、ってことかな。
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