第73話 友人<ひまわり荘の変人>との会話
文字数 3,780文字
「弟の力になってやってくれて、ありがとう」
唇から、するっと出た言葉がそれだった。
「今日まで守ってくれてありがとう。それから……」
「うん?」
ふにゃり、と包み込むように微笑むのに背中を押され、俺は続けた。
「俺を、俺たちを、開放してくれて、ありがとう──」
残酷な夜の女王、ドラッグ<ヘカテ>に関する、全ての呪縛から。
声にはしなかったが、この、実はとても頼りがいのある友人には通じたようだった。
「うーん、まあ、いいタイミングだったんだよね」
友人は言う。
「今朝、弟さんのメッセージを見たんなら、もう分かるだろう。君と君の家族がどんなに危ない立場だったか」
俺は頷いた。俺には全く身に覚えのない理由で、俺と俺の家族までもが違法ドラッグ<ヘカテ>を扱う謎の犯罪組織から狙われていたのだ。俺にしてみれば、まさに晴天の霹靂だった。
だが、弟もこの友人もその一切を俺には知らせず、俺自身と俺の家族──別れてしまったが、妻と娘、義弟を守ってくれていたのだ。
「君たちの身柄を守るのは、彼──君の弟さんとの約束でもあるし、元々僕と彼との利害は一致してたしね」
友人はにっこり微笑んだ。
その場を、しばらく沈黙が支配した。
言いたいことはいっぱいあったのに、何を言えばいいのか、言葉が見つからなかった。
友人はただ飄々とそこにいる。出あった頃と同じように。
「何で俺だけ仲間はずれなんだよ?」
次に出てきたのは、そんな憎まれ口だった。
「何で俺にだけ何も言わなかったんだ。弟も弟だけど……あんたも、ひどいよ」
「ん~」
友人は俺の恨みがましい訴えにちらりと視線をくれると、天井を見るように顔を上げ、両の手の先を合わせた。
「例えば、ここに爆弾があったとしよう」
何故、ばくだん? カストリ酒のことか? 違うか。
「その爆弾はとてもありふれた形をしていて、そうと知ってから見なければ、爆弾だとは分からない。たとえばその椅子」
「え?」
俺は一瞬焦った。これ、爆弾? 椅子型爆弾?
「だから、たとえば、って言ってるでしょ?」
友人は楽しそうに首を傾げた。
「それが本当に爆弾だとして、今ここで爆発するとしたら、僕だって死んじゃうじゃないか。相変わらず反応が面白いね~」
例え話かよ!
ってか、俺が早とちりなのか。……慌てて腰を浮かせて、転げ落ちそうになってる時点でダメダメだよな。うう、恥ずかしい。
「その車椅子、座り心地がいいでしょ?」
「うん」
俺は頷いた。それににっこり微笑んでみせて、友人は続ける。
「その座り心地のいい椅子が“もしも”爆弾だとして、知ってたら君はそんなふうに平気な顔で座ってることが出来る?」
「……出来ない、と思う」
もし本当にそうなら、死に物狂いで逃げるぞ、俺は。足の裏の傷が開いたって構わない。だって、死んだらののかに会えなくなってしまう。
「幾重にも安全装置がついてて、絶対に爆発しないって言われても、それが爆弾であるかぎり、君は落ち着いてそこに座っていられない。そうでしょ?」
「当然だ」
「だから、そういうことなんだよ。君に何も話さなかったのは」
友人はゆったりと椅子の背に埋もれ、両手を膝に遊ばせる。
「知ってしまえば、平気でいられない。不自然な態度になってしまう。君は弟さんの<ヘカテ>単独捜査のあおりを喰って関係者に目をつけられ、とても危ない立場にいたけれど、それを知らなかった。知らなかったから日々自然体でいられた。だからこそ、安全でいられた」
これもある種の『無知の知』かなぁ。やっぱりちょっと違うかな? と友人は首を傾げる。
「ありきたりな言い方だけど」
友人は、俺の目をじっと見つめた。さっきまでほんわりと笑っていたはずなのに、ほんの一瞬のうちに怖いくらい真剣な表情になっているのは何故──。
「この世の中、知らない方が幸せなことがある」
眇められた瞳が、一瞬鋭く光る。
俺は、急に雰囲気の変わった友人にちょっと怯えてしまった。
「何だよ、それ……」
「ごめん、ごめん」
友人はまたふにゃりとした笑顔を見せる。
その途端、ついさっきまでの得体の知れない何かが霧散した。……やっぱりこいつって謎なやつだ。
「怖がらせてしまったね」
「べ、別に怖くなんかないよ!」
俺は強がったが、そんなことは友人にはお見通しのようだ。
「そう?」
穏やかに友人は微笑む。
「そうだよ。怖くないったら怖くない! ヴァージニア・ウルフなんか怖くない!」
「ふうん?」
友人は優雅に足を組み変えた。
「そういえばそんな映画を見たことがあったっけか。エリザベス・テイラーの大学教授夫人が怖かったな……」
ヤケクソで言ってみただけなのに、マトモに応じるなよ。そんなほわんとした口調で。
ちなみに、俺はそういうタイトルの舞台のポスターを見たことがあるだけだ。だいたい、ヴァージニア・ウルフって誰だよ?
「もういいよ。とにかく、俺は怖がってなんかいないの!」
「はいはい」
友人はやっぱり笑ってる。笑ったまま、ズバリと言った。
「僕は答えないよ。君がいくら訊ねても」
「え……?」
「弟さんと<ヘカテ>組織の係わりについてはね。それは彼との約束でもある」
「……何で?」
「さっき言ったでしょ? 知らない方が幸せなことがあるって。彼は君に幸せになってほしがってた。僕としては、彼の遺志を尊重したい」
その瞬間、友人の瞳はまた鋭いものになっていた。俺に有無を言わせぬような、冷厳な眼差し。
「そ、それじゃ、何でわざわざ俺を呼んだんだ?」
蛇に睨まれた蛙ってこんな気分なのかも、とわけの分からない納得をしつつ、俺は気力をふり絞って問いかけた。
「僕に聞きたいことが山ほどあるんじゃないかと思ってね」
「なら、どうして……!」
「でも、聞かれても話せないよって。そう言いたかったんだよ」
またもやふにゃりと笑ってみせる友人。その顔を、俺はただ呆然と眺めていた。
そ、それだけのためにこんな豪華なスペシャル・スイートルームにご招待ってか? どれだけ金持ちなんだ、友よ。いや、あんたが金持ちなのは十分知ってるけどさ。それにしたって限度というものが。
あまりの感覚の違いに、庶民の俺はぐるぐると眩暈がして倒れそうだった。
座ってるのに。
「だけど、僕と<ヘカテ>の係わりについては話しておこうか」
その言葉に、俺の頭はぶん殴られたように一瞬にしてシャキッとした。
え? 何、何だって?
「アレ──つまり<ヘカテ>が生まれた会員制クラブ、実は僕も会員なんだよね」
俺はまじまじと友人の顔を見つめていた。
え、とか、へ、とか、間抜けな声を上げていたように思う。まさか、まさかこの友人がドラッグ<ヘカテ>と繋がりがあったなんて。
「高山の双子、芙蓉と葵だったっけ? 彼らから聞いたはずだよ。<ヘカテ>は元々、ある会員制クラブから生まれたものだって」
友人の言葉に、俺は無意識に頷いていた。
思わぬ事態に、口の中が乾く。動悸、息切れがする。
そう。俺はあの双子から聞いた。<ヘカテ>というドラッグは最初、高級会員制クラブに集うセレブのうち、一部会員のお楽しみで作られたのだということを。クラブ内の<カクテルバー>で、腕の良い<シェイカー>がブレンドしたドラッグ。それが全ての始まりだったということを。
「あ、言っておくけど、僕はやらないよ、ドラッグ」
友人は付け加えた。
「お遊びにしても身体に悪いしね。そんなものより、熱すぎない風呂につかる方がずっと気持ちいいと思うな。こう、湯船でゆったり手足を伸ばすと、じわじわと全身が温まって、強張った筋肉がゆっくりとほぐれていって……うん、一日の終わりの贅沢だね、あれは」
ああ、確かに風呂はいいよ、風呂は。力仕事なんかした日には、本当に極楽だ。俺んちの湯船だと手足は伸ばせないけどな。狭くて。
それにしても……ドラッグと風呂を同列に語る友のセンスに、俺は脱力していた。
「あ、あんたなら、ドラッグなんかやらなくても、素でトリップ出来そうだな……」
俺の呟きに、友人は楽しそうに目を細める。
「人工的な快楽が嫌いなだけだよ。はやりのセックス・ドラッグもねぇ。若いうちからそんなもの使ってどうするんだと思うよ。ほとんどは自己暗示だっていうし」
ドラッグに頼る前に、テクニックを磨けばいいのにねぇ、などとのほほんと語る友。……あんた、さりげなくオヤジじゃないか? いや、オヤジなトシだけどさ。
「だけど、そのクラブの会員の中には、ドラッグのカクテルを楽しんでる人間もいるんだろう?」
俺の問いに、友人は肩をすくめた。
「うん。愛好者はいるね。でも、依存するほどのめり込むような人間はいないよ。退屈な日常のスパイスってとこかなぁ」
退屈な日常のスパイスって。
ドラッグって、そんな安易に語っていいものなの? 危険なものなんじゃないのか?
退廃的。そんな言葉が浮かぶ。
金持ち連中の考えることは分からん。俺はつい溜息をついてしまった。