第82話 家族の食卓
文字数 3,420文字
久しぶりに、楽しい食事になった。
こんなふうに、親子三人で笑いながら食卓を囲んだのはもう何年ぶりになるだろう。弟が死んで、そのほんの数ヶ月後にはリストラにあって、次の仕事を探すために必死になって。──その頃にはもう、俺は心から笑えなくなっていた。
妻と娘を愛していた。だからこそ、自分の不甲斐なさが情けなくて、嘘の笑顔しか見せられなくなっていた。その時は分からなかったけれど、今なら分かる。俺の状態を憂慮し、いつも心配そうにしていた妻。幼いなりに何か感じていたのか、無邪気なはずの笑顔を寂しく曇らせていた娘。
一切の余裕を無くしていた俺を気遣い、妻は俺たち家族全員が危険にさらされていたということを、俺にだけは黙って隠していてくれた。
怖かっただろう。不安だっただろう。それでも彼女は弱音を吐かず、俺とののかを守ってくれた。実際の護衛をしてくれたのは友人の配下の者だ。けれど、その事実を、危険を。知っているのと知らないのとでは、感じるストレスも重圧も違う。
全てを引き受け、気丈に振る舞っていた彼女は、尊敬に値する。
俺は一生、彼女には頭が上がらないだろう。
……弟なら、「最初から上がってなかったんじゃない?」と言うと思うけれど。
そうかもしれない。俺は、初めて会った時から彼女には敵わなかった。コンパの座敷童子、などと皆に面白がられていたらしい俺を(重宝されてたんだよ、と友人なら言うだろうが)、からかいつつもフォローしてくれて、そのあまりのさり気なさに、鈍い俺はなかなか気づけなかった。
死んだ弟の<ヘカテ>組織の捜査絡みで、俺が知らずに綱渡りの日々を過ごしていた時も、彼女はそんな不安をおくびにも出さず、俺が平凡な日常の中ににいると思わせてくれた。
彼女は、いつも俺を包み込んでいてくれた。そして、ののかという、この世の何よりも愛しい宝物までくれたのだ。
そんな、俺にとっては女神のような稀有な女性に、頭が上がるわけがないじゃないか。
今この時、明るい食卓で、彼女が微笑む。ののかがはしゃぐ。
何という幸福だろう。あまりにも幸福すぎて、俺は切なくなった。
俺はまだ彼女を愛している。彼女もまた、まだ俺のことを想ってくれているだろう。だけど、俺たちはもう元には戻れないんだ。
それが寂しくて、切ない。
そう、切ない。
けれど、俺も彼女もそれを口には出さない。言葉にしても意味が無いと二人とも知っているから。
その代わりに、ふとした視線で、微笑みで。俺たちは心を交わす。
言葉のない会話。
それは、平凡だけど幸せな時間を共有した人間のあいだにだけ通じる、愛の形のひとつではあると思う。
「ごはん、美味しかった?」
元妻がののかに訊ねる。口元にご飯粒をつけながら、小さな娘は「おいしかった」と元気良く頷いた。
「パパとママといっしょのごはん、おいしい。ののか、あしたもあさっても、ずっとずっとパパとママといっしょにごはんたべたい」
俺は、う、と小さく呻いた。
まさか、ののかがそんなことを考えていたとは思ってもみなかったんだ。
「ねえ、パパ。おうちにかえろう? ママもさびしそう。どうしてパパはかえってこないの?」
無邪気で、透明で、痛いほど真っ直ぐな子供の瞳。
──勝てやしない。
急に曇った俺の表情に何を思ったのか、ののかは泣きそうな顔になった。
「パパ、ママとののかのこと、きらいになったの?」
俺は、思わず助けを求めるように元妻の顔を見た。
「ののか。パパもママも、ののかのことが大好きよ」
「ほんと?」
「本当よ。ののかが大きくなっても、パパはいつでもののかのパパだし、ママも同じよ。たとえ一緒に住んでいなくても、それは変わらないの。だからののかはそんな心配しなくていいのよ」
「じゃあ、またいっしょにごはんたべられる? あしたもあさっても、ずっとずっと、パパとママとののかと、ごはんたべられる?」
「ののか……」
俺は力なく呟いた。
子供なりに、必死に問いかけてくるこの幼い娘に、俺は何と答えればいいんだろうか。
「パパ……」
ののかはテーブルに置いた俺の手を、ぎゅっと握った。小さいのに、温かい手。彼女の母親と同じ。
「ねえ、ののか」
妻は呼びかけ、天使の輪をきらめかせる娘の髪をやさしく撫でた。
「パパとママとののかの三人でご飯を食べるのは、とても特別なことなの。パパがののかのパパで、ママがののかのママで、ののかはパパとママの大切な大切な娘。離れて暮らしていても、私たちは家族なのよ。それを確認するために、これからは特別な日に三人でご飯を食べましょう」
「とくべつなひ?」
「そうよ。特別な日。特別って素敵なことなの。一番大切ってことなのよ。ねえ、あなた」
「う、うん」
ののかは探るように俺を見つめている。
「ほんと? とくべつはいちばんたいせつ?」
「そうだよ。ののかはママとパパの特別だ。この世で一番大切な、可愛い娘だよ」
「パパの言うとおりよ。そうね、これからは私たちの一番大切なののかの特別な日に、みんなでご飯を食べましょう。誕生日がいいわ。ののかの生まれた日。ののかが生まれてきてくれて、ママはとてもうれしかった。パパなんて、あんまりうれしすぎて泣いちゃったのよ?」
悪戯っぽい目で俺を見ながら、元妻は恥ずかしいことをばらしてくれる。
おいおい。
「ないちゃったの?」
ののかに訊ねられて、俺は絶句した。
「パパ、ないたの? うれしいと、なくの?」
うう。
俺は目だけで元妻を見た。無意識に助けを求めていたかもしれない。
が。
今度は助けるどころか、彼女はものすごく楽しそうに俺とののかのやり取りを見つめている。……ダメだ、こりゃ。
「あ~、あのな、ののか」
俺はやたらと咳払いをしながら言葉を押し出した。
ゴホン、ゲフン、くそっ、エヘン虫め。風邪でもないのに。
「お産っていうのはな、あ、お産って、赤ちゃんを産むってことだよ。お母さんも赤ちゃんも、絶対に安全っていうことはないんだ。お母さんたちはみんな、命をかけて赤ちゃんを産む。赤ちゃんだって、みんなすごく頑張って産まれてくるんだ」
「ののかも?」
「うん。覚えてないだろうけど、ののかもすごく頑張って産まれてきたんだよ。だけど、パパはね。ママとののかが頑張ってる間、何も出来ないんだ。ふたりを助けてあげたくても、何も出来ない。ただ、無事に生まれることを祈るしか出来なくて……」
病院の白い廊下、分娩室の前のベンチを思い出す。
妻の苦しそうな呻き声、緊迫する空気。待つことしか出来ない俺は、ひたすらに祈った。
妻を、生まれてくる赤ん坊を、お守りくださいと。
「ののかの産声を聞いた時は、うれしかったなぁ……」
言葉にするなら、「ほんぎゃー」としか表現のしようがないけど、あの時の俺には、天使の吹くトランペットのように聞こえた。ファンファーレのように響くそれを聞きながら、俺は泣いた。泣きながら、妻と子供を守ってくれたなにものかに、心の底から感謝した。
ふと気づくと、ののかが首を傾げて俺の顔を覗き込んでいる。うっかり思い出に浸っていたことに気づいて、俺は何となく恥ずかしくなった。無意識に首の後ろを掻く。あの時の赤ん坊がこんなに大きくなったかと思うと、本当に感慨深い。
「うぶごえって、なに?」
ののかが訊ねる。
「赤ちゃんが、産まれて初めて出す声だよ。ののかは、とっても元気だった。元気な声で、泣いてたんだ」
「ののか、泣いてたの?」
「そうだよ」
俺は元妻と同じように娘の柔らかい髪を撫でた。さらさらで、つやつやで、子猫の毛のように頼りなく、かすかに水気を含んでいる。
「人は誰でも、泣きながら産まれてくるんだ」
「パパも?」
「そうだよ」
「ママも?」
ののかに見つめられ、彼女はやさしく頷いた。
「そうよ。ママも同じよ。泣きながら産まれてきたわ。もう覚えてないけど。……産まれてくるのが苦しかったのか、それとも、やっと産まれることが出来てうれしかったのか。分からないけどね」
まだ幼い娘は、しばらく考えていたかと思うと、こう答えた。
「ののかは、うまれてうれしかったから、ないたんだとおもう」