第63話 俺が<ヴァルハラ>への鍵

文字数 3,316文字


「鍵って……どういうことなんだ?」

俺は呟いた。
分かっている。これは過去の録画なんだ。

『俺の残したデータにアクセス出来るのは、この世でただ一人、兄さんだけだ。そうだな、うーん、アクセスっていうより、ピンを打つ、かな。兄さんは宝箱を開ける鍵みたいなものなんだ。兄さんが触れると、閉まっておいたデータが開く。びっくり箱みたいにね』

「俺はパンドラかよ!」

『そうだね、どちらかというと、びっくり箱よりパンドラの箱に近いかもしれない。だって、兄さんはあくまで鍵であって、箱の中身を手にするわけじゃないから』

「よく分からん……」

俺は音を上げた。邪心が無いから俺は鍵? になれたといっても、意味が分からないし。

『箱の中身、つまりデータについて兄さんは何も知らないし、知らないんだから探すことも出来ない。だから誰かに唆されて利用されることもない』

「確かに、存在も知らないものをどうこうしたいなんて思わないわな」

密かに息をつく。静かな部屋に、かすかなマシンノイズと弟の声だけが聞こえる。

『時が来たら、兄さんには鍵の役割を果たしてもらうつもりだった。時期に関しては、彼に一任してある。今、兄さんがこれを見ているということは、その時期が来たということだろう』

「鍵って、俺は何もしてないぞ?」

『兄さんには何かをしたという意識はないだろうけど、大丈夫だよ。鍵の役割はもう果たしてもらった。兄さんと俺しか知らない質問に答えた後、採血されただろう? 声紋も採取されて、結果、兄さんは認証されたんだ』

「認証? 何の?」

『俺が鍵を掛けて、兄さんがその鍵を外した。俺たちが一卵性双生児だったから、それが出来たんだよ』

母の子宮の中で、最初ひとつだった受精卵が偶然ふたつに別れ、それぞれ細胞分裂を繰り返し、双子の兄弟としてこの世に生を受けた。

そうか、弟は……。

『もう俺が何を言いたいか分かるよね? 俺たちのDNAは全く同じだ。俺はそのDNAを鍵に使ったんだ』

DNAを鍵に。そんなことが出来るのか……?
指紋認証とか、眼底網膜認証は聞いたことがあるが、遺伝子レベルでの認証方法はまだ実用化されてないんじゃなかったっけ? ──いや、智晴がそんなことを言ってたような気がするだけで、俺には良く分からないんだが……。

『しかも、生体認証だから。<鍵>自身が生きていなければ意味がない。だから、死体になった俺の身体を利用することは出来ないんだよ。サスペンス映画なんかで、兄さんもちょっとグロい場面を見たことがあるだろう?』

う。そういえば、警備員を殺して、その手を切断したもので指紋認証セキュリティを突破したり、首を切断してスキャナーに網膜の読み取りを……。

えげ。

「そういうのは見たくない……」

『映画ででも、残虐なシーンは見たくないけどね』

画面の中の弟は、しばし黙った。俺も沈黙する。
……この時、弟も俺たちの両親のことを思い出したに違いない。

『俺が封印したデータは、兄さんの生体遺伝子情報+αの情報が<ヴァルハラ>に認証された時、開放される。この「ピン」が違っている場合は、封印したデータはそのままだ』

「開放されるって……どうなるんだ?」

『「ピン」に応じて<ヴァルハラ>が開放したデータは、複数の場所に同時に送信される。<ヴァルハラ>の役割はそれで終わりだ。兄さんの役割もね』

「どういうことだ?」

『つまり、それまで俺が<ヴァルハラ>に託して隠していたデータが関係各所にばら撒かれたその瞬間、全てが終ったってこと。躍起になってこのデータを闇から闇へ葬り去ろうとしていた奴らの苦労が、無駄になったってことなんだよ』

弟は人の悪い笑みを浮かべてみせた。

『俺を殺してまで奪いたかったデータなのにね』

「殺されるのが分かってて、先手を打ったってことか……」

俺は身体の芯から力が抜けていくのを感じた。
何で逃げてくれなかったんだ……!

『殺されるのが分かってたくせに、どうして逃げなかったんだって、多分兄さんは怒ってると思う』

また真面目な顔に戻り、弟は続けた。

『でもね、あの麻薬、<ヘカテ>を扱う組織は、それほど危険だったんだよ。俺は、兄さんや義姉さん、ののかや、もちろん智晴くんを巻き添えにしたくなかったんだ。それだけは分かってほしい』

そう、危険だとは聞いている。芙蓉と葵から。
けど、その全体像は霧の中。彼らも知らない。知る術が無い。

『<ヘカテ>を密輸出入しているあの組織の実態を、俺はある程度まで把握することが出来た。でも、それはとても危険な情報なんだ。物理的な資料としてそれを残すのは難しかった』

「そこでお前の言う<ヴァルハラ>の出番か?」

『資料の隠し場所に悩んでいた時、彼がアドバイスしてくれたんだ。「全てを電子情報の形にして、特別なキーが無い限りは決して開くことのない要塞に送り、守ってもらえばいい」と。それが<ヴァルハラ>だ』

ヴァルハラ。北欧神話によれば、戦場で勇敢に戦って死んだ英雄だけが入ることの許される、名誉ある死者の園らしいが。

『なぜそんな名前がついているのかは知らないよ。電脳の海に漂う小島、と彼は表現していたけど、とにかく<ヴァルハラ>には危ない情報ばかりが集められているらしいんだ。たとえば、公になればどこかの政府が転覆しかねないスキャンダル情報や、あるいは、とても表に出せない取り扱い厳重注意の危険な研究資料とかね。<ヴァルハラ>を作り出した人物は、そういった情報たちを「英雄」として扱っているらしい』

まあ、変人にありがちなシャレなんだろう、と弟は画面の中で苦笑している。

──いや、だからさ。さっきからお前の話の中に出てくる「彼」って誰だよ?

『まあ、<ヘカテ>組織の情報は「英雄」級だってことだ。彼はそう判断してた』

「だから、その彼って誰だよ? もしかして……、<風見鶏>がそうなのか?」

<風見鶏>がお前の捜査の協力者だったというのか?

だとすれば、俺が偶然だと思っていたネットでの出会いは、奴の仕組んだ芝居だったという可能性が出てくる。俺ってば、すっかり騙されていたのかも。

『ああそう、彼についてはまだ説明してなかったね。俺も特別パソコンやインターネットに詳しいわけじゃないから、彼の助言と協力が無ければ、あの組織について調べた情報を守りきるのは、無理だったと思う』

そこで言葉を切り、弟は束の間視線を彷徨わせた。

『うーん、兄さんには例の組織について知らせたくないんだ。知ったら命を狙われる。だから、彼との協力関係については、あまり詳しく話せない……』

弟は何かを迷うように考え込んでいるようだったが、やがてゆっくり語りだした。

『うん、そうだな、彼は色んな意味で上層部に位置している人間だとだけ言っておくよ。彼自身も、ずっと<ヘカテ>組織を邪魔だと思っていたらしいんだ。でも、表立って動けない立場でね。その分、影から手を回して様々な場面で俺を援助してくれた。兄さんも彼とは親しいはずなんだけど──』

俺と親しい人間?

<風見鶏>は、親しい人間とは言い難いような気がする。今回、はからずも世話になってはいるけど、親しいかと問われると、どうだろう。

『当然、兄さんは彼の顔も知ってるはずだよ』

顔……? <風見鶏>とは一度も会ったことはない。素のものかどうかはわからないけど、《声》ですら今日初めて聞いたくらいだ、顔なんて想像も出来ない。ってことは、弟のいう「彼」とは<風見鶏>ではないということか。

まさか、智晴?
いや、それも違うような。智晴は弟の仕事内容に関しては何も知らないようだったし……。 

会社勤めの頃の同僚とは疎遠になっているし、俺と親しくて、しかも色んな意味で上層部に位置している人間というと……。

うーん、思いつかない。

『名前は言わなくても分かるはずだけど。ヒントは出しておこうか」

俺は弟の次の言葉を、固唾を飲んで待った。
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