第80話 蜘蛛の糸はネットの海に繋がっている。
文字数 2,857文字
「ともかく、君は今、無事にここにいる」
また訪れた短い沈黙の後、友人は改まった表情で言った。
「君の──亡くなった弟さんとの約束を果たすことが出来て、僕は今、本当にほっとしているんだ」
──君の身の安全を守ること。
──最高のタイミングで<ヘカテ>組織の情報を開放すること。
それが彼との約束だった。そう友人は言う。
「なあ」
「ん? なぁに?」
「その最高のタイミングっていうのは、やっぱりあんたが蜘蛛の糸を張り巡らせているからこそ、分かったことなんだろ?」
友人は頷いた。
「そうだね……。網の目をより細かくし、さらに広げていったよ。<獲物>が引っかかればすぐに分かるよう、感度も上げた」
ああ、本当に蜘蛛みたいだ。
友人は静かに笑った。
「君の弟さんが亡くなってから、僕は必死になってそれまで持っていたものより、さらにセンシティブ且つ強靭な網を構築したと思う。──約束は、守りたかったもの」
──俺が死んだら、兄さんを守って欲しい。兄さんと、その家族を。
「今回、君にとっても僕にとっても最高のタイミングを捉えることが出来たのは、そうやって集まってきた情報を、余すことなく見つめ続けていたからだと思う」
「高山の疑心暗鬼と、彼と彼の息子たちとの間の確執のこと?」
「それもあるし、君の居所が高山に知れてしまったことが一番大きい原因かな。弟さんが集めて、君が知らずに<封印>になっていた情報を公開するのは、今しかないと思った」
封印されていた情報は、公開されることでその価値を失う。<風見鶏>もそんなことを言っていた。だからこそ、タイミングを計ることが大切だったんだろう。もしも見誤ったら、タダでは済まない大博打。
「早すぎても遅すぎてもダメだったんだ。そのどちらかでも、君の身の安全が脅かされることになったはずだ。……君の家族もね」
そう言う友人の目は凪いだ湖のように穏やかだった。
今、友人はこんなふうに語ってくれているけれど、簡単なことではなかったはずだ。本当は、俺なんかが想像するよりもっと危険で、神経をすり減らす作業だったんだと思う。
「ありがとう……」
俺はそのひと言しか言えなかった。
ありがとう。俺と俺の家族を守ってくれて。
ありがとう。弟との約束を大切にしてくれて。
そして、ごめん。
辛いこと、全てを背負わせてしまって。
「いい言葉だね……」
「え?」
「ありがとう、って言葉」
友人は微笑む。
「僕も君に言いたいよ。ありがとう」
身に覚えのない感謝の言葉に、俺は焦った。
だって俺、真実を知らされていなかったとはいえ、友人には迷惑をかけるばかりで、そんな言葉をもらえるようなこと、何もしてないじゃないか。
「そんな。礼を言うのは、言わなければならないのは、こっちの方だよ。俺なんか、何にも知らなくて、ただあんたのお荷物になるばかりで──」
「何言ってるの」
友人はテーブルに肘をついて苦笑する。
「あのね。守るもののある人間はね、そうでない人間よりずっと強くなれるんだよ。君の弟さんだってそう。ドラッグを絶対許さないという彼の強い信念は、間接的には、兄である君を守るためのものでもあったんだ」
「俺を守るため?」
「君たちのご両親のことは知っているよ。彼から聞いた」
「……」
ドラッグで錯乱した男に惨殺された、俺たちの両親。
犯人を恨もうにも、そいつはそのまま廃人になってしまった。
「ドラッグを放置すれば、いつまた同じ事件が起こるか分からない。もしかしたら、たったひとりの兄弟である君も被害に遭うかもしれない。だから君の弟さんはひたすら頑張った。同僚に陰口を叩かれ、上層部に遠回しに脅されながらも、<ヘカテ>捜査を止めなかった」
彼は強かった。守りたいものがあったから。
友人はそう言い切った。
「僕は、彼を尊敬する」
にっこり笑って友人は俺の顔を見た。
「全てが終わった今、ようやく僕は彼と対等になれたような気がするよ」
ふー、と息を吐き、友人はしばらく瞑目した。
友人と弟の間には、俺と弟のものとはまた違う種類の絆があるんだろう。それは多分、俺には窺い知れないものだ。……ちょっとだけ、寂しい気がする。ちょっとだけな。
そんな感傷に浸っていた俺がふと気づくと、友人はいつの間にか目を開けて、俺の顔をじっと見つめていた。その目には、先ほどとは打って変わった悪戯っぽい笑みが浮かんでいる。
「それにしても、顔だけはそっくりなんだよねぇ……」
「わ、悪いかよ! 当たり前じゃないか、俺たち一卵性双生児なんだから!」
けど、頭の中身は全然似てないよ、悪かったな!
心の中で吠えてみる。……虚しい。
「でもさぁ。そっくりだということは、彼も芙蓉の手にかかれば君と同じくらいの美女に化けられるんだろうなぁ」
くくく、と楽しそうに笑う友人。
おい、こら、変態! よからぬ想像をするのはヤメロ。芙蓉も同じこと言ってたけどさぁ──。
「あんまり変なこと言ってると、弟が怒って化けて出たって知らないからな!」
「んー、彼はそういうタイプじゃないと思うなぁ」
友人は可愛らしく小首を傾げる。
……だからそれ、やめろってば。
「じゃあ、どういうタイプだって言うんだよ?」
「目的のためには、自分が道化になったって一向に構わないタイプの人間だったと思うよ」
芯が一本通った人間は、他人に笑われることなんて何とも思わない。
友人はそう言った。
「それこそ、<ヘカテ>組織捜査のためには、着ぐるみを着ることさえ厭わなかったものねぇ」
「き、着ぐるみ?」
友人は頷いた。
「末端の売人の張り込みの時にね。長く同じ場所にいても怪しまれないように、着ぐるみを着て風船配りのバイトを装っていたこともあったんだよ」
えらいねぇ、彼は。
友人は思い出しながらもしきりに感心している。
だけど、兄ちゃんは驚いたぞ、弟よ。
捜査のためとはいえ、お前はそんなことまでやってたのか……。俺は何でも屋だから、仕事で着ることあるけどさ。
「何の着ぐるみだったか、聞きたい?」
そう問う友人の、猫が動くものを見つめる時のようなきらきらした目が、コワイ。
「どう?」
「き、聞きたくないから!」
俺はぶんぶんと首を振った。
なんだぁ、残念。とか独りごちつつ、友人はぷくっと唇を尖らせる。……あのぅ、俺がおたおたするのが楽しそうに見えるのは気のせいですか?
「でもさ。芯が一本通ってるっていうのは、君も同じだよ」
しばし俺をびびらせた後、友人はまた真面目な顔に戻った。
「夏樹くんが攫われた! って思った時、君は女装なんか気にせず、裸足であることも忘れて走った。人の目なんて、考えもしなかったでしょ? 大切なもののために一直線。そういうところ、やっぱり」
兄弟だねぇ、と言って友人は微笑った。