第84話 夢の終わり
文字数 3,068文字
それからの一週間は、瞬く間に過ぎた。
豪華なホテル暮らしも、自分独りだけだったら死ぬほど退屈で味気なくて、三日も我慢出来ずに脱走していたと思う。けど、智晴が毎日欠かさずののかを連れてきてくれたから。日頃会えない寂しさを、ここぞとばかりに爆発(?)させて、連日、喰う・寝る・遊ぶ。
足が、まあ、アレなので、肩車やら飛行機やらぶらんこやらやってやれないのが俺的には寂しかったが、膝に乗せて一緒に絵本を読んだり、毛足の短い質の良いラグに二人して座り込んで積み木をしたり、お手玉をしたり、綾取りをしたり。
恐ろしいことに、部屋を用意してくれた友人は、木馬まで置いてくれていたのだった。どこまで至れり尽くせりなんだ。
八日めの朝。
毎晩傷の具合を診てくれていた医師が、「全快」だと太鼓判を押してくれた。が、医師は俺本人ではなく、わざわざ立ち会ってくれていた友人に向かって退院後(?)の諸注意をする。なんでだよ。
「もう心配はないと思いますが、しばらくはくれぐれも無理をしないように。でこぼこしたところ、例えば、砂利道のようなところを長距離歩いたりはしないようにしてください」
「ええ。ペット探しなんかは当分控えさせるようにします。足場の悪い場所をうろうろするのはまだ良くないでしょうから」
「それがよろしいでしょう」
白い髭がどこかの御隠居を思わせる医師は、重々しく頷いた。
いや、だから、俺を置いていかないでくれ、二人とも。怪我してたのは俺だぞ?
脱力している間に、医師は部屋を辞そうとしている。慌てて礼を言うと、医師は首を振った。
「礼を言うなら、彼に。私は彼とは碁仲間でしてね。好敵手からの頼みでは断れません。あなたは良いお友だちを持ちましたな」
ふぉっふぉっふぉっと笑いながら去っていく医師。友人の碁仲間……どうりで。毎晩の傷の手当て後の手合わせで、俺が一度も勝てなかったはずだ。あんな人の良い顔をして、実は案外喰えないじいさんだったんだな。
「……あんたの知り合いって、みんなひと癖あるよな」
友人は笑っている。
「確かにね。でも、君だって僕の知り合いというか友人なんだよ。そこのところは分かってるかな?」
ちょっと意地悪っぽい笑み。
くそっ、この「ひまわり荘の変人」め。人を類友みたいに言うんじゃねぇ。
じっとりと睨みつける俺の視線をそよ風のように受け流し、にこやかに友人は告げた。
「お迎えが来たみたいだね」
俺を迎えに来る前、ののかを幼稚園に送って行ったという智晴は、乗ってきた車を滑らかに走らせつつ、溜息をついた。
「朝から泣いちゃって。宥めるのが大変でした……」
最初から、パパの足の怪我が治るまでって言い聞かせてあったんですが。
智晴は疲れたように呟いた。
「悪い……」
俺は目を伏せた。フロントグラス越しの陽光が眩しい。今日もいい天気だ。
「お前を悪者にしちまったな」
俺の謝罪に、智晴はふっと笑った。
「大丈夫ですよ。あの子の欲しがっていた絵本を買ってあげるから。絶版になっていて、探すのに苦労したんですが」
手持ちのコネとツテを総動員したんです、と智晴は苦笑する。でも、きっとそれで機嫌を直してくれるはずだから、と。
ねえ、義兄さん、と智晴は続けた。
「僕はののかの叔父で、あの子も確かに僕のことを慕ってくれるけど、父親のあなたはやっぱり彼女にとっては特別なんですよ。もしもあなたが非道な父親であっても、彼女はあなたを慕うことをやめないでしょう。彼女に対してあなたが悪者になろうとしても、きっと無理ですよ」
そうだろうか、と俺は自問した。
「大人の身勝手な都合でそばにいてやれない父親なのに……それでも?」
俺の問いに、真っ直ぐ前を見ていた目でちらりとこちらを見やる。
「それでも、です。ののかはあなたのことが大好きです。知ってるでしょう?」
後ろ向きモードに入ってしまった俺を責めるように、智晴は軽く眉を跳ね上げた。
車のオーディオからは、クラシックなのかポップスなのか分からないが、きれいな曲が流れてくる。智晴の趣味なんだろう。だけど、ののかのために子供向きCDも常備されていることを俺は知っている。この義弟は、本当に自分の姪を可愛がっているのだ。
その彼の言うことだ。きっと真実なんだろう、ののかが、娘が、こんな父親を慕ってくれているということは。
あー、ダメだな、俺は。ののかや、智晴、元妻。みんなが俺を大切に思ってくれているのに。独りで卑屈になってちゃ失礼だよな。
「ごめん」
「何がです?」
前を向いたままの義弟に、俺は頭を下げる。
俺はそのまま黙っていた。智晴もそれ以上何も聞かなかった。
俺の城……というより、棲み家である、いびつな形のコンクリート打ちっぱなしなビルもどきが見えてきた時、俺は何だかぼーっとしてしまった。現実感を失うっていうのかな、そんな感じ。
あそこから出て、全ての始まりの場所に向かったのは、あれはいつだったっけ。そう、あの夏至の日、目覚めて白いドレスの女の死体に驚き、わけも分からず逃げ出したはずの、あのホテルに向かったのは。
……えーと。静養(?)していた七日間を入れると、ほぼ一週間と半分。だよなぁ。
ああ、洗濯物、取り入れておいて良かった。
って、そうじゃなく。
ここを出たのが、つい昨日のように思えるんだ。あんなに色々あったのに。何だろう、このおかしな感じ。早い流れについていけないっていうか、浦島太郎?
うーん、浦島太郎は違うか。それだと、いま車で送ってくれてる智晴が亀ということになるしな。嫌だなー、こんなヒネた亀。
「義兄さん?」
それに、竜宮城で鯛や平目の舞踊りも見てないし、乙姫さまにお酌してもらったわけでもないし、
「義兄さん?」
あー、でもこの一週間とちょっとの日々が、一年と数ヶ月くらいに思える。ってことは、反対か? 浦島太郎の場合、竜宮城での三日が陸で百年だったような。すると、俺はむしろ逆浦島?
「わっ!」
いきなり目の前でひらひらと手を振られて、俺はびくっとした。有体に言うと、シートからずり落ちかけた。きちんとシートベルトをしていたから、そんな醜態をさらさなくて済んだが。
呆れたような智晴の目が痛い。うう。
「着きましたよ、義兄さん。さっきから呼んでるのに、反応ないから心配しましたよ。目を開けたまま寝てたんですか?」
んなわけないだろ! と言いかけた俺の鼻先に、智晴が四角い箱を突きつけた。
「わっ、玉手箱!」
「……どんな白昼夢を見てたんです?」
え、いや、その。
俺はもごもごと口の中で呟いた。
「ののかと会えないのが寂しいのは分かりますけど、あんまりぼんやりしてるとまた怪我しますよ」
「お、おう……」
ちゃんと答えたのに、わざとらしい溜息が聞こえる。
くそぉ。
……話題を変えよう。
「だから、その箱は何なんだ?」
箱は、よく見れば紙製だ。とはいえ、そこはかとない高級さを醸し出している。
「サンドイッチですよ。あなたの昼食。帰りがけに彼が持たせてくれました。あのホテルのレストラン・シェフ特製らしいですから、きっと美味しいはずです」
サンドイッチかぁ。それは有り難い。確か、冷蔵庫には水とケチャップとマヨネーズくらいしか入ってなかったはずだ。
とりあえず、玉手箱でなくてよかった。