第52話 回想 メメント・モリ

文字数 3,230文字


俺たち──俺と弟がまだ中学生の時、その事件は起こった。

ごく平均的な家庭だった。父と母と、俺たち双子の兄弟。平凡な日常が、ドラッグによって断ち切られたあの夜のことを、俺は一生忘れない。


猫の額ほどの庭のある、小さな一戸建ての家。そこで俺たち家族は暮らしていた。あの夜、猫の声がすると勝手口から外をのぞいた母は、門灯の小さな明かりの向こうにまだ幼稚園児くらいの子供が立ち尽くしているのを見つけた。

「小さい子が泣いてるわ」

勝手口から聞こえた母の声。今も覚えている。

時刻は夜九時を回ったところ。子供のそばに親らしき大人の姿は無い。こんな時間に幼児が外でたったひとりで泣いているとはどうしたことか。迷子かしら、そう思ったのだろう母は、そこを出ておもちゃのような小さな門を開けた。

その先は、もう推測するしかない。

母は子供に声を掛け、とりあえず保護しようと門の内側に連れて入ったようだ。そこに、子供を追いかけてきたらしい男が走りこんできた。驚く母と子供を、男は持っていた重い鉄パイプで殴った。

母の悲鳴に、父は俺たちに家から出ないようきつく言い、玄関から出た。

父がドアを開けると同時に、男が殴りかかってきた。父は男を家に入れないよう抵抗した。だが、咄嗟に飛び出しただけの丸腰の父に何が出来ただろう?

玄関先で父を殴り倒し、男は家の中、俺たちのいるリビングにまで踏み込んだ。異様な物音に怯える俺たち兄弟の前に現れた男は、今から思えばずいぶんと小柄で貧相だったと思う。だが、その身体から爆発的に発散される暴力のオーラに、俺たちは二人とも身体が竦んだ。

男の濁った眼が俺たちをとらえる。落ち窪んだ眼窩の奥の瞳は、明らかに正気ではなかった。何に対するものか、憎悪に凝り固まった石のような瞳。上下に大きく喘がせる胸には真っ赤な血が飛び散り、開いたままの口からこぼれる涎がその上に滴る。

まさに地獄の亡者だった。

俺たちの同じ顔にとまどったのか、一瞬男の動きは止まった。が、鉄パイプを握り直すとすぐに襲ってきた。その時、俺と弟のどちらに襲い掛かってきたのかは、記憶が曖昧だ。

男が動きを再開したのと同時に、俺たちは硬直した身体を瞬間解凍されたように跳ねさせ、椅子の背に掛かっていた洗濯紐の両端をそれぞれ握った。

男の左右に走りこみながら、紐を強く引き合う。紐はちょうど足に掛かり、男はつんのめるように倒れた。手に持っていた鉄パイプが飛んで、リビングのガラスが砕ける。

男はテーブルに頭をぶつけ、気絶した。

俺たちは動かなくなった男を呆然と見つめていたが、ふとした瞬間に眼を合わせ、ふたり無言で玄関に向かった。

その時の光景。
今でも時々、夢に見る。

メメント・モリ──死すべき運命を忘るべからず。
人は必ず死ぬもの。その通りだけれど。

自分たちの両親の、あんなになった姿を見なければならなかったのも、運命なんだろうか。

どんな力で殴れば、人の身体はこんな風になるんだろう。
非現実のような現実が、そこにあった。

父も、母も、そして名も知らない子供も。ただの肉塊となり果てていた。破れた布をまとった、ただの肉塊に。

目の前の光景が、何かの映画かドラマ、刺激の強すぎる漫画とかなら楽しめたのだろうか。

江戸時代、無残絵というものが流行ったという。だが、絵と現実は違う。血腥い惨殺場面を描いた絵師も、それを実際に目の前に見たいとは思わないだろう。

それが肉親のものなら、なおさら。

玄関から、開け放しになった門までのあいだは、血の海だった。とこどころに散らばる白っぽいものは、骨のかけらか脳漿だろうか。異様な力で何度も殴打されたらしい三人は、すでに絶命しぴくりともせず、ただ血だけがそれ自体に意思があるように、だらだらと流れ続けている。

膝の力がぬけてがくりと倒れこみ、俺はその場に両手をついた。ぴしゃり、という湿った音に下を見ると、血溜りの中に白くて丸いものが浮かんでいる。それが何かに気づき、俺はひゅっと息を吸い込んだ。

「兄さん」

小さな声に、俺は這い蹲ったまま弟を見上げる。弟も俺を見ている。兄さん、弟はもう一度俺を呼び、また呼んだ。俺はそろそろと手を伸ばし、弟の手を掴んだ。いつも温かい弟の手が、氷のように冷たい。それがかわいそうで、俺はぎゅっと手を握り締めた。

だんだん同じ温度になっていく俺たちの右手と左手。それだけを支えに、俺たち兄弟は必死で正気を保った。

遠く聞こえた近所の人のものらしい悲鳴。それからパトカーの音が近づいてきて俺たちが警察に保護されるまで、どれくらいの時間が経ったのか、全く覚えていない。

ようやく人の声が頭の中で意味を結ぶようになった瞬間、ふと気づくと俺たちは病室にいた。二人同じベッドに寝かされている。付いていた担当刑事によると、別のベッドに寝かせようとしても、俺たちは握った手を互いに離さなかったという。

「被疑者は、麻薬の常習者で……」

看護師が俺たちの脈拍や血圧を測り、気分はどうかなど訊ねてきた後、それまで控えていた初老の刑事が、淡々と、しかし労るように語ってくれた。

「今夜も麻薬を摂取した挙句、錯乱して子供を酷く折檻したようです。近隣の住民も子供の悲鳴を聞いています。耐えかねた子供が裸足で逃げ出した後、それを追いかけてきた被疑者が、おそらく子供を保護しようとしたあなた方のご両親もろとも……」

譫妄症状が酷く、自分の子供すら分からなくなってしまったんでしょう。刑事はそう言った。

「普段はそれなりに可愛がっていたようですが、麻薬は、人を人でないものにしてしまいますから……」

人を、人で無いものにする。それが麻薬。

俺たちの両親もろとも自分の子供を殴り殺したあの男は、ただの化け物と成り果てていた。自らの破壊衝動のおもむくまま、何のためらいもなく、頭蓋骨が砕け散るほどの力で三人を殴り殺したのだ。通常の神経で出来ることではない。

薬物に支配された脳が男にそれを命じたのか。それとも、元からあったものが薬物によって開放されただけなのか。

『覚醒剤、やめますか。それとも人間やめますか?』

そんな公共広告機構のCMがあったが、あの男は人間をやめる方を選んだのだろう。

俺たちの咄嗟の連携プレーにより、頭をテーブルにぶつけて失神していただけの男は、目覚めてもとうとう正気に戻らなかったという。三人の人間を惨殺したことも、そのうちの一人が自分の子供だったということも、ついに理解することはなかった。

巻き添えを食って殺された両親のことを思うと、やるせない。母も、父も、人として当たり前のことをしただけだ。俺と弟を守り育んだそのやわらかい愛情をもって、見知らぬ幼児にも心を掛けた。理屈ではない部分で、命の連鎖というものを理解していたんだろうと思う。

無力な幼児も、やがて大人になって次の命を育んだはずだ。それがどういう形であれ。

そう、一番哀れなのは、あの子供だったのかもしれない。この世に生まれてほんの数年。それなのに、実の父親に殺された。本来、あの子が庇護を受けるべき相手に。

男が手を出したドラッグは、父と子という命の連鎖を腐らせ、断ち切ったのだ。

男がドラッグに手を出した、最初の動機は分からない。だが、その時は自分の子供を手に掛けようとは夢にも思わなかっただろう。また、見知らぬ他人を殺すなど思いつきもしなかっただろう。

麻薬は人を変えるのだ。人面獣心の化け物に。

軽い気持ちで手を出したものがどんなモンスターだったのか、気づいた時には遅すぎるのだ。

だから、弟と同じように、俺も麻薬を憎む。弟が警察官を目指したのは、両親のあの事件があったからだろう。直接聞いたことはなかったが、俺には本当は弟の気持ちが分かっていた。
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