第70話 夏樹くんマジ天使。
文字数 3,643文字
『もしかしたら、<サンフラワー>は<ワルキューレ>のひとりだったのかな……』
<風見鶏>はなおもぶつぶつと呟いている。おいおい、いいのか。俺には何のことか分からないけど、それって、分かるやつには分かるってやつなんじゃあ?
今まで、チャットでもメールでも、<風見鶏>は余計なことを口にするようなことはなかった。それなのに。
「あの、俺は何も知らないし、分からないからな?」
一応、言っておこう。
『あ、ごめん。無駄口叩くなんて、<ウォッチャー>として失格だね。でも、今回は珍しく興奮しちゃったよ』
そういうものなのか……。
「まあ、いいけど。あんたにはあんたの世界があるんだろうし」
『さ、君はもう元の部屋にお帰り。ここに連れてきた時と同じように、その車椅子が自動で連れて帰ってくれるから』
「うん。分かったよ。それにしても、この車椅子凄すぎないか? どうやってコントロールしてるんだ?」
『ひ・み・つ』
そう言って、<風見鶏>はくすくす笑った。
『またそのうち連絡するよ。君の足の裏の怪我が治った頃にね。その時は、またいつものように情報を提供してほしい。頼りにしてるよ、僕の<風>』
そう、俺と彼との間では、彼が<風見鶏>、俺が<風>。風見鶏は風を読む。風のもたらす情報を。
──だけどやっぱり、二丁目の柴犬コウちゃんの換毛がいつだったのか、とか、三丁目の地域猫、雌だけどボス猫の、通称お鈴姐さんがいつ何匹どんな柄の子猫を産んだのか、とか、そんな情報が何の役に立つのか、俺には皆目分からなかった。
言いたいことだけ言った後、<風見鶏>は通話を切った。相変わらず、一方的だ。
<風見鶏>ご自慢の? 完全自動車椅子が動き出す。
部屋から出る直前、俺は最後に一度だけ、自己破壊プログラムだかで多分スクラップになってしまったであろう、例のPCを振り返った。
ほんの少し前まで、懐かしい弟の姿と声が再生されていた画面。それは既に静まり返り、もはや何も映し出すことはなかった。
行きとは別に、帰りはぼーっとしていた。
行きの場合、容赦なく動き出す車椅子に、どこに連れて行かれるんだとビクビクしていたが、帰りは「どうせこれって<風見鶏>が運転手だし、だったら俺は車掌かな」とかどうでもいいことを考えていたせいだろう。
「義兄さん!」
へ?
あれまあ、いつの間にか元のスイートルームに戻ってきたようだ。
「どこに行ってたんです? 心配してたんですよ!」
「えっと、その、あー……」
智晴が怒っている。俺の身を本気で案じてくれていたのが分かるぶん、椅子の上でひたすら身を縮めるしかなかった。
「おじちゃん」
ててて、と走ってきた夏樹が俺の膝に抱きつく。
「まいごになってたの?」
「いや、迷子っていうか……」
何の前置きもなく、いきなり人を拉致ったりするからこんなことになる。やい、<風見鶏>! 説明責任を果たせ!
──って言いたいところだが、今回は彼もただのメッセンジャーだったしなぁ。
芙蓉と葵も、もの問いたげに俺を見つめている。その瞳にも、心配そうな色を見つけて、俺は申し訳なさについ視線を逸らせてしまった。
あ、だけど。これだけは言っておかなくちゃ。
「いい知らせだ。俺たち全員、もう命を狙われることはなくなった。大手を振って堂々とここから出ていけるようになったんだよ。もちろん、もう変装なんかしなくてもいい」
「どういうことなんです、兄さん……?」
智晴が、まるで「UFOにさらわれて、記憶を消されてしまいました!」と訴えるイタイ人を見るような目で訊ねてくる。
そりゃあ、そうだよなぁ。皆の寝てる間にいきなり姿を消して、昼前にやっと戻ってきたと思ったら、いきなり脈絡の無いことを言い出すんだもん。
彼らからしてみたら、数時間の行方不明の後、俺の人格が変わってしまったように見えてもしょうがないと思う。えっと、何だっけ。SF小説であったよな、『盗まれた町』とかそういうの。寄生型エイリアンに身体を乗っ取られる話だっけか。『人形つかい』なんか、そのエイリアンは確かナメクジに似てるんだよな。
げ。ナメクジは嫌だ。
だけど、俺にしてもいきさつが複雑すぎて、何て説明すればいいのやら分からない。うーん……。
けど、多分──。
「悪い。俺にもよく分からない。ただ、明日以降の新聞を隅々まで読んでみたら、何かが分かると思う」
<ヴァルハラ>から解き放たれたあの情報は、そのことによって「唯一」という価値を失ったけれど、複数──いや、数え切れないくらいの人間がそれを知ることによって、確かに動くものがあるはずだ。
封じられていた禁断の箱。飛び出した<情報>という名の精霊たちは、外の世界に何をもたらすのだろう。
それを知っているのは、その存在を知っていたごく少数の人間だけなんだろうな。
「……そんな言葉で納得出来るとでも思ってるんですか?」
智晴の、呆れたような声。その表情はと見てみれば、怒ったところに半分笑っているような、怒鳴りつけたいのをかろうじて我慢しているような、なんとも微妙且つ不穏な空気をチリチリと燻らせているように見える。
口の端が、心なしかヒクヒクしている、ぞ?
こういう時は──。
「しょ、しょうがないだろ! 俺、<風見鶏>に拉致されてたんだからな。見ろ、この車椅子! 勝手に動くんだぞ。ドアだって勝手に開くし! 記憶が混乱したって当然だろ!」
逆ギレするしかない。
単に、起こったことを上手く話す自信が無いだけなんだけどさ。
「義兄さん……」
智晴は片手で額を押さえた。どうしたんだ、いきなり頭痛か?
──いや、俺に呆れたんだよな、智晴。分かってるよ。ちょっとボケてみただけさ。気にすんな、って誰に言ってんだか、俺も。
「頭に謎の金属片でも埋め込まれましたか? リトル・グリーン・マンにでも会いましたか? あるいは、不思議な音の組み合わせでも聞きましたか?」
な、なにげに詳しいな、智晴。矢追さんのファンか?
「い、いや……宇宙人には会ってないし」
「じゃあ、誰に会ったんです?」
「う……」
助けを求めるように芙蓉と葵の双子に視線で縋ってみたが、当然というか、二人とも助け舟なんか出してくれなかった。
「もう逃げ隠れしなくてもいいというのは有難いけど」
「その根拠を話してもらいたいな」
二人とも笑ってるけど、目が笑ってない。智晴に至っては、思いっきり不機嫌に睨んでくれている。そりゃ、蚊帳の外に置かれたら気分悪いのは分かるけど、俺だって、俺だって……。
「おじちゃんのこと、いじめたら、ダメ」
夏樹が膝の上に乗ってきて、そのか細い腕で俺の頭を抱えてくれた。
「夏樹くん……?」
俺は子供の背中に腕を回し、落ちないように支えた。
「だって、おじちゃん、このいすさんにつれてかれたんでしょ? おじちゃん、歩けないからいすさんから下りられなかったんだよね」
わるいのは、このいすさんなんだから!
そう言って、夏樹は車椅子の肘掛け部分をぽかぽか叩いた。
うう、夏樹。お前だけだ、俺の味方は。
「ありがとう、夏樹くん」
俺は子供の小さな拳が怪我をしないよう、そっと押さえて止めた。もみじの手が、どんぐりの実のようになっている。うーん、猫の肉球と同じくらいかわいい。
「そうなんだよ。おじさん、今、歩けないのに。皆がいじめるんだ」
「おじちゃん、かわいそう」
うるうるした目で膝の上で背伸びし、俺の頭を撫でてくれる。普段、芙蓉や葵にこんなふうにされてるんだろうな。いい父親だし叔父さんだ。
「ねー。おじさん、かわいそうだよね」
天使のような夏樹をぎゅっと抱きしめ、俺は智晴たちにあっかんべをしてやった。
文句があるなら鹿鳴館へいらっさい、って、ん? ベルサイユだったか? ま、どっちでもいい。頼むよ、智晴、芙蓉、葵。どう話していいか、どこまで話していいか、俺には本当に分からないんだ。
「義兄さん……」
智晴が疲れたような声で俺を責める。
「子供返りするのはやめてください。ちっともかわいくありませんから」
かわいくなくてもいいもーん。俺だってまだ心の整理をしかねてるのに、お前らが寄ってたかって無理無理答えさせようとするから、ちょっと反抗してみただけだよ。
「これだけは答えてください。その車椅子に拉致されて行った先で、一体誰に会ったんですか?」
智晴の問うのに、芙蓉と葵もうんうんと頷いている。
腕の中の夏樹の子供体温が、ほんの少し俺を安心させてくれる。その温かさに力をもらい、俺は答えた。
「誰っていうか……」
俺は大きく息を吸い込んだ。
「もう、この世にいない人間だよ。俺が会ったのは」