第371話 七つの水仙の花
文字数 2,257文字
空は穏やかに晴れて、日差しが暖かい。
高いところに白い雲、青い空を飾るリボンみたいに。
まだ寒いけど、気持ちいい天気。こんな日は自転車のペダルを踏む足も軽くて──だけど耳は冷たいな、耳は。
「何でも屋さーん!」
お、俺を呼び止めるあの声は。
「氷室さん、こんにちは」
自転車を止めて、挨拶する。
「ちょうど姿が見えたから声を掛けちゃって。今、移動中? この後またどこかの仕事?」
「いえ、空いてますよ。何かお困りごとですか?」
ちょっとしたご不便お困りごと、何でもお申し付けください! と、氷室さんもよくご存知の<あなたの町の何でも屋さん>チラシの宣伝文句を連ねてみたら、ウケてくれた。
「うん、今まさに困っていてねぇ。腰が痛くってさ」
「え? 大丈夫ですか? 病院行きますか?」
氷室さんのいる庭先に自転車を止めさせてもらって、その体調を気遣う。どっか痛いなら、早いめに病院行ったほうがいいよ!
「いやいや、これはいつものことでね、トシ取るとあちこち痛いのが当たり前でさ。日によっていろいろだけど、今日は腰が特にねぇ。だから屈むのが辛くて」
言いながら、氷室さんは庭の隅を指さした。
「何でも屋さん、あれ、あそこにある水仙ね。全部こっちのプランターと、足りなければこの空の植木鉢に移してほしいんだ」
指されたほうを見ると、隣の植え込みのせいで日当たりは良くないみたいだけど、鮮やかな黄色の花たちが群れ咲いている。
「あ、はい。わかりました。お庭の模様替えですか?」
たずねてみると、そういうのじゃないんだけど、と氷室さんは溜息を吐く。
「春に娘夫婦が越して来るんだけどさ、庭を潰してガレージにしたいっていうんだよ。まあ、俺も庭いじりの趣味は無いから別にいいといえばいいんだけど、つれあいがさ。生前に植えた花なんかもう消えてなくなったと思ってたら、水仙がね」
あんな日陰でも咲くんだねぇ、と続ける。
「工事は今月の予定で──気づいたら、花が咲き出しててさ。一月、あんなに寒かったのに、それでも咲くんだな、とちょっと驚いてねぇ、こっちはすっかり忘れてたのにさ。今日も眺めてて……ふと思いついたんだよ、植え替えしてやればいいかって。だけど、」
放置してたプランターと植木鉢を出してきたら、腰に来たみたいで、どうしようかと困っていたんだよ、と苦笑いする。
「諦めようかと思ったところで、何でも屋さんを見つけたからさ。声を掛けてみたんだよ」
「それはありがとうございます。喜んでやらせていただきますね!」
顧客様に頼りにされてうれしい。これぞ何でも屋の醍醐味! ──あ、喜びのあまりうっかりしてた。これ、素手ではできない作業だよ。
「あの、スコップとかありますか? 無かったら、ちょっと家までひとっ走りして取ってきます」
事務所兼自宅のボロビル一階は、シャッター付きの大きな駐車スペースだ。免許は持ってても車なんて持ってない俺は、道具倉庫として便利に使ってる。皆さまのご不便お困りごとに、臨機応変で対応するための何でも屋お道具コレクション、いつでも出番を待ってるぜ!
──と、逸りそうになったけど、スコップは多分あると氷室さんは言う。
「庭仕事の道具なら、まだ取ってある……というか、放ってあるな。そこの物置に入ってるはずだよ」
「んー……、あ、そうですね。一通り揃っているようですね。奥様、庭がお好きだったんですね」
スコップとか、小さな鍬、園芸バサミ、ミニ熊手や大小の如雨露、液肥のボトルに肥料の袋。
「しょっちゅう庭いじりをしていたよ……。その頃は、この家はいつも花に囲まれていたな」
今は亡き人を思う、遠い目。俺も鏡の中に見たことのある、その目の意味に気づかないふりをして、作業の開始を告げた。
「じゃあ、さっそく始めますね」
水仙の花レスキュー・プロジェクト、開始です! とお道化てみたら、氷室さん、笑ってくれた。
それから小一時間頑張って、葉っぱと花の出ている水仙は土ごと全てプランターと植木鉢に移せたと思う。小さい球根がいっぱい出てたなぁ。
「移植する時期ではないけど、たぶん大丈夫と思いますよ。水仙って頑丈ですから」
庭用蛇口から、大きな如雨露に汲んだ水を撒きながら俺が言うと、氷室さんは目を細めた。
「そうかい。ありがとうね、何でも屋さん──ここだけ春だね」
黄色の水仙は、明るい陽射しの下でまるで輝いているようだ。
「あったかい色ですよね。あ! そういえば、今日は立春じゃなかったです?」
「立春……」
「今日から春ってことですね。──ああ、水仙って、陽だまりの光を集めて、花の形にしたみたいだなぁ。春の光の花束」
ちょっと乙女チックだったかも~、なんて笑い飛ばそうとしたんだけど。
「……若いときはお金がなくて苦労を掛けたけど、誕生日に花束を贈ったことがあったよ。歌に肖ってさ、土手に生えてたやつだったけど。それでも、彼女は喜んでくれたっけな──」
そう呟いて、氷室さんは半分泣き笑いのような顔になった。
「忘れていたことを思い出したよ。若いころのお返しに、今度は彼女が俺にこの水仙を贈ってくれたのかもしれない──そんなふうに思うのは、ロマンチックにすぎるかな?」
いいトシをして、それこそ少女趣味だねぇ、と空を見上げる。
青い空に雲のリボン、地上には明るい黄色の水仙──。
その目にきらりと何かが光って見えるのは、きっとこの日の陽射しの悪戯だったんだろう。
「今日はいい日だ。ありがとう、何でも屋さん」
愛するきみに捧げよう
七つの水仙の花
──『Seven Daffodils』 訳詞 なかにし礼
高いところに白い雲、青い空を飾るリボンみたいに。
まだ寒いけど、気持ちいい天気。こんな日は自転車のペダルを踏む足も軽くて──だけど耳は冷たいな、耳は。
「何でも屋さーん!」
お、俺を呼び止めるあの声は。
「氷室さん、こんにちは」
自転車を止めて、挨拶する。
「ちょうど姿が見えたから声を掛けちゃって。今、移動中? この後またどこかの仕事?」
「いえ、空いてますよ。何かお困りごとですか?」
ちょっとしたご不便お困りごと、何でもお申し付けください! と、氷室さんもよくご存知の<あなたの町の何でも屋さん>チラシの宣伝文句を連ねてみたら、ウケてくれた。
「うん、今まさに困っていてねぇ。腰が痛くってさ」
「え? 大丈夫ですか? 病院行きますか?」
氷室さんのいる庭先に自転車を止めさせてもらって、その体調を気遣う。どっか痛いなら、早いめに病院行ったほうがいいよ!
「いやいや、これはいつものことでね、トシ取るとあちこち痛いのが当たり前でさ。日によっていろいろだけど、今日は腰が特にねぇ。だから屈むのが辛くて」
言いながら、氷室さんは庭の隅を指さした。
「何でも屋さん、あれ、あそこにある水仙ね。全部こっちのプランターと、足りなければこの空の植木鉢に移してほしいんだ」
指されたほうを見ると、隣の植え込みのせいで日当たりは良くないみたいだけど、鮮やかな黄色の花たちが群れ咲いている。
「あ、はい。わかりました。お庭の模様替えですか?」
たずねてみると、そういうのじゃないんだけど、と氷室さんは溜息を吐く。
「春に娘夫婦が越して来るんだけどさ、庭を潰してガレージにしたいっていうんだよ。まあ、俺も庭いじりの趣味は無いから別にいいといえばいいんだけど、つれあいがさ。生前に植えた花なんかもう消えてなくなったと思ってたら、水仙がね」
あんな日陰でも咲くんだねぇ、と続ける。
「工事は今月の予定で──気づいたら、花が咲き出しててさ。一月、あんなに寒かったのに、それでも咲くんだな、とちょっと驚いてねぇ、こっちはすっかり忘れてたのにさ。今日も眺めてて……ふと思いついたんだよ、植え替えしてやればいいかって。だけど、」
放置してたプランターと植木鉢を出してきたら、腰に来たみたいで、どうしようかと困っていたんだよ、と苦笑いする。
「諦めようかと思ったところで、何でも屋さんを見つけたからさ。声を掛けてみたんだよ」
「それはありがとうございます。喜んでやらせていただきますね!」
顧客様に頼りにされてうれしい。これぞ何でも屋の醍醐味! ──あ、喜びのあまりうっかりしてた。これ、素手ではできない作業だよ。
「あの、スコップとかありますか? 無かったら、ちょっと家までひとっ走りして取ってきます」
事務所兼自宅のボロビル一階は、シャッター付きの大きな駐車スペースだ。免許は持ってても車なんて持ってない俺は、道具倉庫として便利に使ってる。皆さまのご不便お困りごとに、臨機応変で対応するための何でも屋お道具コレクション、いつでも出番を待ってるぜ!
──と、逸りそうになったけど、スコップは多分あると氷室さんは言う。
「庭仕事の道具なら、まだ取ってある……というか、放ってあるな。そこの物置に入ってるはずだよ」
「んー……、あ、そうですね。一通り揃っているようですね。奥様、庭がお好きだったんですね」
スコップとか、小さな鍬、園芸バサミ、ミニ熊手や大小の如雨露、液肥のボトルに肥料の袋。
「しょっちゅう庭いじりをしていたよ……。その頃は、この家はいつも花に囲まれていたな」
今は亡き人を思う、遠い目。俺も鏡の中に見たことのある、その目の意味に気づかないふりをして、作業の開始を告げた。
「じゃあ、さっそく始めますね」
水仙の花レスキュー・プロジェクト、開始です! とお道化てみたら、氷室さん、笑ってくれた。
それから小一時間頑張って、葉っぱと花の出ている水仙は土ごと全てプランターと植木鉢に移せたと思う。小さい球根がいっぱい出てたなぁ。
「移植する時期ではないけど、たぶん大丈夫と思いますよ。水仙って頑丈ですから」
庭用蛇口から、大きな如雨露に汲んだ水を撒きながら俺が言うと、氷室さんは目を細めた。
「そうかい。ありがとうね、何でも屋さん──ここだけ春だね」
黄色の水仙は、明るい陽射しの下でまるで輝いているようだ。
「あったかい色ですよね。あ! そういえば、今日は立春じゃなかったです?」
「立春……」
「今日から春ってことですね。──ああ、水仙って、陽だまりの光を集めて、花の形にしたみたいだなぁ。春の光の花束」
ちょっと乙女チックだったかも~、なんて笑い飛ばそうとしたんだけど。
「……若いときはお金がなくて苦労を掛けたけど、誕生日に花束を贈ったことがあったよ。歌に肖ってさ、土手に生えてたやつだったけど。それでも、彼女は喜んでくれたっけな──」
そう呟いて、氷室さんは半分泣き笑いのような顔になった。
「忘れていたことを思い出したよ。若いころのお返しに、今度は彼女が俺にこの水仙を贈ってくれたのかもしれない──そんなふうに思うのは、ロマンチックにすぎるかな?」
いいトシをして、それこそ少女趣味だねぇ、と空を見上げる。
青い空に雲のリボン、地上には明るい黄色の水仙──。
その目にきらりと何かが光って見えるのは、きっとこの日の陽射しの悪戯だったんだろう。
「今日はいい日だ。ありがとう、何でも屋さん」
愛するきみに捧げよう
七つの水仙の花
──『Seven Daffodils』 訳詞 なかにし礼