第94話 お正月・はんぺんを探して 後編
文字数 2,831文字
「最後にはんぺんを見た、いや、はんぺんが居たのは、どこ?」
「おうち。リビングのカーペット。ぼく、お昼寝したの。おきたらいなくなってたの、はんぺん」
「いなくなったのは、今日なのかい?」
夏樹はまた言葉もなく頷いて、新しい涙をぽろっとこぼした。
「はんぺん、ぼくのこときらいになったのかな? だからどっか行っちゃったのかな」
「いや、嫌いになったりはしないと思うよ。あんなに仲良しだったじゃないか」
そう答えてやりながら、俺はこの子の父親に連絡を取らなければならないと考えていた。きっと物凄く心配しているだろう。
家のリビングから無くなった、もとい、居なくなったはんぺん。そのはんぺんを持ち出すことの出来る人間は限られる。犯人はお前だな、芙蓉。それとも葵か? ま、あいつらは同じ顔をしているが。
俺は携帯を取り出して、そこについているマスコットを振ってみせた。イギリスの有名なアニメキャラクターの犬だ。
「彼に聞いてみよう。彼はね、飼い主の発明家より頭がいいんだよ。ちょっと待っててね」
大きな目を丸くしてこちらを見ている夏樹に笑ってみせ、俺は登録してあるこの子の父親の番号を呼び出した。
「もしもし?」
『あ、そっちに夏樹、夏樹がお邪魔してないかしら?』
あちらにも俺の番号が登録してあるんだろう。夏樹の父親・芙蓉は焦った声でいきなり訊ねてきた。……この言葉遣いからすると、今日は女装しているんだろうな。
「夏樹くんからはんぺんの行方を探して欲しいと頼まれてね。今、目の前にいるんだけど」
『夏樹は無事?』
「無事だよ。凍えてたけど、今はほっぺも赤い。大丈夫」
『良かった……』
どさっ、という音が聞こえた。ホッとしたあまり、座り込みでもしたんだろう。
「夏樹くん、お父さんにも叔父さんにも聞いたけど、はんぺんがどこにいるのか分からないんだって。君ならはんぺんの行方、知ってるよね?」
『う……』
芙蓉は言葉を詰まらせた。やっぱり犯人はこいつか。
「はんぺんは今どこにいる?」
『それが……』
「うん?」
事情を聞いて、俺は呆れた。
なんと、夏樹の昼寝のあいだカーペットに転がっていたはんぺんに、芙蓉は年賀状用のインクをこぼしたというのだ。しかも、真っ赤なやつ。
白いぬいぐるみの犬の頭に、真っ赤なインクがべったりと……。
スプラッタだ。
赤インクは、ちょうどぬいぐるみの頭から額を通って口まで垂れたらしい。……そりゃ、隠すわな。そう俺は思った。
「分かったよ。……夏樹くんのパパに、俺のところに迎えに来てあげるよう伝えてくれ。じゃあな」
夏樹のパパ本人にそう告げると、俺は通話を切り、おもむろにメールを打った。
『三が日中に、はんぺんからインクを落とせ。どんな手段を使ってもいい。死ぬ気で落とせ。夏樹くんには俺がうまく言っておく』
「そのわんちゃん、はんぺんのこと知ってた?」
夏樹がきらきらとした瞳で聞いてくる。う、その純粋な輝き、汚れちまった大人には眩しすぎるぜ。
「うん。彼が言うにはね。夏樹くんのはんぺんは、今お遣いに行ってるんだって」
「おつかい?」
「そうだよ」
俺は頷き、にっこり微笑んでみせた。信じきった瞳に、嘘をつく胸がちくちく痛む。
「はんぺんはね、今天国に行ってるんだって。夏樹くん、はんぺんにママの話をした?」
「うん。したよ。ママのこと、いっぱいおはなしした」
「だからね、はんぺんは夏樹くんのママに会いに行ったんだよ。夏樹くんがどれだけママのことが好きか、教えに行ったんだ」
ちくちく、ちくちく。芙蓉の馬鹿ヤロー! 俺にこんな嘘つかせやがって。
「ほら、お正月は、新しい年が明けたおめでたい時だから。だから、特別なんだよ」
理由にもなっていないが、夏樹は信じたようだ。
「おしょうがつがとくべつだから、天国へいけるの?」
「そうだよ」
「くりすますじゃないの?」
不思議そうに首をかしげる。う……確かに、クリスマスの方がまだそれっぽいけれど。
「あー、ほら。お正月はパパのお店もお休みだろ? お休みだったら、パパは一日中夏樹くんといられるだろう? だから、はんぺんは安心してお遣いに行ったんだよ」
芙蓉が彼の亡き妻から引き継いだ女装バーは、クリスマスは書き入れ時で忙しかったはずだ。
「くりすます……パパいそがしかった。葵ちゃんがいてくれたけど、ちょっとさびしいね、ってはんぺんとおはなししてた」
納得してくれたようだ。俺は内心ホッとした。
「でも、夏樹くん、どうしておじちゃんのところに来たのかな?」
「葵ちゃんが、おじちゃんはいなくなったいぬやねこ、見つけるのとくいなんだっていってたから」
「ま、まあね」
俺は何でも屋だからな。犬猫探しもすれば、庭木の剪定、草むしり、どぶ浚いでも何でもやるさ。
「それにしても、よく一人でおじちゃんちまで来れたね。一度しか来たことないのに。電車、人がいっぱいで大変だっただろう?」
「でんしゃじゃないよ。たくしー」
そう言って、夏樹は俺の名刺を見せた。パソコンで作ったショボいやつで、この子の父親と叔父に渡した覚えがある。
「うんてんしゅさんに、ここに連れていってくださいってたのんだの」
「タクシー? お金は?」
夏樹の住んでいる街からここまで、タクシーだったら結構なお金が飛ぶぞ?
「葵ちゃんのくれたお年玉もってたの」
げ、叔父バカ葵。こんな子供にいくらお年玉包んだんだ。……まあ、下手に電車になんか乗られてたら、迷子になってたかもしれないし、いいとしよう。しかし夏樹。お前も子供のくせにタクシーに乗りなれてるな?
まあ、いいや。考えるの疲れた。
それからしばらく、「はんぺんはいけるのに、どうしてぼくは天国へいけないの?」などという無邪気な質問に答えながら迎えを待った。良心が拷問を受けているみたいだった。
「夏樹!」
ようやく迎えに来た芙蓉は、今日は和装だった。ママだ。パパだけど、ママだ……。
「パパ! はんぺんは今天国のママのところにおつかいにいってるんだって。おじちゃんが、わんちゃんにきいてくれたんだよ」
最愛の息子を抱擁しながら、問いかけるようなまなざしを向けてくる芙蓉に、俺は言ってやった。
「はんぺんは、お正月が過ぎたら帰ってくるらしいよ」
正月中に、何が何でもインクを落とせよ?
俺は視線で凄んでやった。良心の拷問状態だったんだ。それくらいの腹いせをしたっていいだろう?
お詫びに、と葵が運んできたおせち料理の豪勢なお重くらいでは、純粋な子供をだましたこの心の痛みは癒されない。
ののか、パパ、お正月なのにすっごく疲れちゃったよ。
スプラッタはんぺんがこの三日で元の白いはんぺんに戻るよう、お前も祈ってやってくれ……。
「おうち。リビングのカーペット。ぼく、お昼寝したの。おきたらいなくなってたの、はんぺん」
「いなくなったのは、今日なのかい?」
夏樹はまた言葉もなく頷いて、新しい涙をぽろっとこぼした。
「はんぺん、ぼくのこときらいになったのかな? だからどっか行っちゃったのかな」
「いや、嫌いになったりはしないと思うよ。あんなに仲良しだったじゃないか」
そう答えてやりながら、俺はこの子の父親に連絡を取らなければならないと考えていた。きっと物凄く心配しているだろう。
家のリビングから無くなった、もとい、居なくなったはんぺん。そのはんぺんを持ち出すことの出来る人間は限られる。犯人はお前だな、芙蓉。それとも葵か? ま、あいつらは同じ顔をしているが。
俺は携帯を取り出して、そこについているマスコットを振ってみせた。イギリスの有名なアニメキャラクターの犬だ。
「彼に聞いてみよう。彼はね、飼い主の発明家より頭がいいんだよ。ちょっと待っててね」
大きな目を丸くしてこちらを見ている夏樹に笑ってみせ、俺は登録してあるこの子の父親の番号を呼び出した。
「もしもし?」
『あ、そっちに夏樹、夏樹がお邪魔してないかしら?』
あちらにも俺の番号が登録してあるんだろう。夏樹の父親・芙蓉は焦った声でいきなり訊ねてきた。……この言葉遣いからすると、今日は女装しているんだろうな。
「夏樹くんからはんぺんの行方を探して欲しいと頼まれてね。今、目の前にいるんだけど」
『夏樹は無事?』
「無事だよ。凍えてたけど、今はほっぺも赤い。大丈夫」
『良かった……』
どさっ、という音が聞こえた。ホッとしたあまり、座り込みでもしたんだろう。
「夏樹くん、お父さんにも叔父さんにも聞いたけど、はんぺんがどこにいるのか分からないんだって。君ならはんぺんの行方、知ってるよね?」
『う……』
芙蓉は言葉を詰まらせた。やっぱり犯人はこいつか。
「はんぺんは今どこにいる?」
『それが……』
「うん?」
事情を聞いて、俺は呆れた。
なんと、夏樹の昼寝のあいだカーペットに転がっていたはんぺんに、芙蓉は年賀状用のインクをこぼしたというのだ。しかも、真っ赤なやつ。
白いぬいぐるみの犬の頭に、真っ赤なインクがべったりと……。
スプラッタだ。
赤インクは、ちょうどぬいぐるみの頭から額を通って口まで垂れたらしい。……そりゃ、隠すわな。そう俺は思った。
「分かったよ。……夏樹くんのパパに、俺のところに迎えに来てあげるよう伝えてくれ。じゃあな」
夏樹のパパ本人にそう告げると、俺は通話を切り、おもむろにメールを打った。
『三が日中に、はんぺんからインクを落とせ。どんな手段を使ってもいい。死ぬ気で落とせ。夏樹くんには俺がうまく言っておく』
「そのわんちゃん、はんぺんのこと知ってた?」
夏樹がきらきらとした瞳で聞いてくる。う、その純粋な輝き、汚れちまった大人には眩しすぎるぜ。
「うん。彼が言うにはね。夏樹くんのはんぺんは、今お遣いに行ってるんだって」
「おつかい?」
「そうだよ」
俺は頷き、にっこり微笑んでみせた。信じきった瞳に、嘘をつく胸がちくちく痛む。
「はんぺんはね、今天国に行ってるんだって。夏樹くん、はんぺんにママの話をした?」
「うん。したよ。ママのこと、いっぱいおはなしした」
「だからね、はんぺんは夏樹くんのママに会いに行ったんだよ。夏樹くんがどれだけママのことが好きか、教えに行ったんだ」
ちくちく、ちくちく。芙蓉の馬鹿ヤロー! 俺にこんな嘘つかせやがって。
「ほら、お正月は、新しい年が明けたおめでたい時だから。だから、特別なんだよ」
理由にもなっていないが、夏樹は信じたようだ。
「おしょうがつがとくべつだから、天国へいけるの?」
「そうだよ」
「くりすますじゃないの?」
不思議そうに首をかしげる。う……確かに、クリスマスの方がまだそれっぽいけれど。
「あー、ほら。お正月はパパのお店もお休みだろ? お休みだったら、パパは一日中夏樹くんといられるだろう? だから、はんぺんは安心してお遣いに行ったんだよ」
芙蓉が彼の亡き妻から引き継いだ女装バーは、クリスマスは書き入れ時で忙しかったはずだ。
「くりすます……パパいそがしかった。葵ちゃんがいてくれたけど、ちょっとさびしいね、ってはんぺんとおはなししてた」
納得してくれたようだ。俺は内心ホッとした。
「でも、夏樹くん、どうしておじちゃんのところに来たのかな?」
「葵ちゃんが、おじちゃんはいなくなったいぬやねこ、見つけるのとくいなんだっていってたから」
「ま、まあね」
俺は何でも屋だからな。犬猫探しもすれば、庭木の剪定、草むしり、どぶ浚いでも何でもやるさ。
「それにしても、よく一人でおじちゃんちまで来れたね。一度しか来たことないのに。電車、人がいっぱいで大変だっただろう?」
「でんしゃじゃないよ。たくしー」
そう言って、夏樹は俺の名刺を見せた。パソコンで作ったショボいやつで、この子の父親と叔父に渡した覚えがある。
「うんてんしゅさんに、ここに連れていってくださいってたのんだの」
「タクシー? お金は?」
夏樹の住んでいる街からここまで、タクシーだったら結構なお金が飛ぶぞ?
「葵ちゃんのくれたお年玉もってたの」
げ、叔父バカ葵。こんな子供にいくらお年玉包んだんだ。……まあ、下手に電車になんか乗られてたら、迷子になってたかもしれないし、いいとしよう。しかし夏樹。お前も子供のくせにタクシーに乗りなれてるな?
まあ、いいや。考えるの疲れた。
それからしばらく、「はんぺんはいけるのに、どうしてぼくは天国へいけないの?」などという無邪気な質問に答えながら迎えを待った。良心が拷問を受けているみたいだった。
「夏樹!」
ようやく迎えに来た芙蓉は、今日は和装だった。ママだ。パパだけど、ママだ……。
「パパ! はんぺんは今天国のママのところにおつかいにいってるんだって。おじちゃんが、わんちゃんにきいてくれたんだよ」
最愛の息子を抱擁しながら、問いかけるようなまなざしを向けてくる芙蓉に、俺は言ってやった。
「はんぺんは、お正月が過ぎたら帰ってくるらしいよ」
正月中に、何が何でもインクを落とせよ?
俺は視線で凄んでやった。良心の拷問状態だったんだ。それくらいの腹いせをしたっていいだろう?
お詫びに、と葵が運んできたおせち料理の豪勢なお重くらいでは、純粋な子供をだましたこの心の痛みは癒されない。
ののか、パパ、お正月なのにすっごく疲れちゃったよ。
スプラッタはんぺんがこの三日で元の白いはんぺんに戻るよう、お前も祈ってやってくれ……。