第193話 後編
文字数 1,376文字
その瞬間、どっと風が吹きつけた。窓が軋む。白い梅の花びらが渦巻き、怒涛のように押し寄せる。
さらわれそう……。
窓硝子越しだというのに、あまりの迫力に思わず俺は眼をつぶった。閉じた目蓋の裏まで埋め尽くす、白い花吹雪。
その花闇の中から、声とも取れない声が聞こえた。
なかなかこっちに来ないから、心配したよ
いつまでもそこに留まるのは駄目だ 悪いものになってしまって戻れなくなる
迎えに来たよ お前の孫は先に来て こっちで待ってる
「……!」
ほんの一瞬のことだというのに。
次に俺が眼を開けた時、そこに老人の姿は無かった。
あ、あれ……? あの人どこへ行ったんだろう。それに、今のは何だったんだ? 相変わらず外の風はきついけど、あんな物凄いの……。超局地的な竜巻とか?
俺はよっぽどぼんやりしてたみたいだ。肩を叩かれるまで声を掛けられてるのが分からなかった。
「ちょっと。大丈夫かい、何でも屋さん」
「あ、川口さん……」
検査、終わったんですか、と続ける自分の声を遠く聞きながら、俺は辺りを見回した。
「あとは薬だけだよ──って、本当にどうしたんだい?」
具合でも悪いのかい、と訊ねてくる心配そうな声に、俺は慌てて答えた。
「今、ここで入院患者らしいご老人と話してたんですが、梅の花びらが──」
「梅の? まだ散るほどじゃないんじゃないか」
不思議そうに川口さんは窓の外を見た。そこには、あの白梅の古木。
「あー、風、きついね。朝来た時はそうでもなかったのに。これじゃ飛ばされる花びらもあるか」
捩れ気味の黒っぽい梅の根方には、誰もいなかった。さっきあそこにいた男の子はどこへ行ったんだろう? 老人と面差しの似た、あの男の子は──?
帰り、寒そうだねえ、とぼやく川口さんの声が、古木から眼を離せなくなった俺の耳にどこか遠く響く。
「梅はしかし、我慢強い花だよ。もっと寒い一月頃から咲いてたりするし……散り時も分かりにくい。桜は分かりやすく咲いて散るのに」
桜を、あの老人は待っているようだった。だけど──。
「やっぱり、花の兄っていうだけあるねえ」
え……?
「花の、兄……」
ぽつりと零した俺の声を拾って、川口さんは頷きながら続けた。
「梅は百花の魁 ってね。まだ寒いうちから一番に花を咲かせて春を告げるんだ。死んだ婆さんの田舎じゃあ、花迎えの花とも言ったらしい」
梅が咲かないと他の春の花は咲かないもんなあ、と川口さんは続ける。だから梅は花の兄なんだと。
「そっか……」
俺はすとんと何かが腑に落ちたような気がした。きっと、子供のうちに亡くなった老人の兄が、道に迷った弟を迎えに来たんだ。梅の花の力を借りて。
「いい話をありがとうございます、川口さん」
「そ、そうかい。そりゃ良かった」
川口の爺さんが照れる。恥ずかしいのか咳払いなどしながら次の予定について話す。
「清算をしてる間に処方箋が出るから、それを待ってから薬局に行こうかね」
「この病院の真正面に処方箋薬局がありましたっけね」
そんなふうに話しながら、二人で総合待合室を後にする。ふと、俺はもう一度窓の向こうを見た。
白梅の花びらが、雪のように風に舞い散る幻影が見えたような気がした。
さらわれそう……。
窓硝子越しだというのに、あまりの迫力に思わず俺は眼をつぶった。閉じた目蓋の裏まで埋め尽くす、白い花吹雪。
その花闇の中から、声とも取れない声が聞こえた。
なかなかこっちに来ないから、心配したよ
いつまでもそこに留まるのは駄目だ 悪いものになってしまって戻れなくなる
迎えに来たよ お前の孫は先に来て こっちで待ってる
「……!」
ほんの一瞬のことだというのに。
次に俺が眼を開けた時、そこに老人の姿は無かった。
あ、あれ……? あの人どこへ行ったんだろう。それに、今のは何だったんだ? 相変わらず外の風はきついけど、あんな物凄いの……。超局地的な竜巻とか?
俺はよっぽどぼんやりしてたみたいだ。肩を叩かれるまで声を掛けられてるのが分からなかった。
「ちょっと。大丈夫かい、何でも屋さん」
「あ、川口さん……」
検査、終わったんですか、と続ける自分の声を遠く聞きながら、俺は辺りを見回した。
「あとは薬だけだよ──って、本当にどうしたんだい?」
具合でも悪いのかい、と訊ねてくる心配そうな声に、俺は慌てて答えた。
「今、ここで入院患者らしいご老人と話してたんですが、梅の花びらが──」
「梅の? まだ散るほどじゃないんじゃないか」
不思議そうに川口さんは窓の外を見た。そこには、あの白梅の古木。
「あー、風、きついね。朝来た時はそうでもなかったのに。これじゃ飛ばされる花びらもあるか」
捩れ気味の黒っぽい梅の根方には、誰もいなかった。さっきあそこにいた男の子はどこへ行ったんだろう? 老人と面差しの似た、あの男の子は──?
帰り、寒そうだねえ、とぼやく川口さんの声が、古木から眼を離せなくなった俺の耳にどこか遠く響く。
「梅はしかし、我慢強い花だよ。もっと寒い一月頃から咲いてたりするし……散り時も分かりにくい。桜は分かりやすく咲いて散るのに」
桜を、あの老人は待っているようだった。だけど──。
「やっぱり、花の兄っていうだけあるねえ」
え……?
「花の、兄……」
ぽつりと零した俺の声を拾って、川口さんは頷きながら続けた。
「梅は百花の
梅が咲かないと他の春の花は咲かないもんなあ、と川口さんは続ける。だから梅は花の兄なんだと。
「そっか……」
俺はすとんと何かが腑に落ちたような気がした。きっと、子供のうちに亡くなった老人の兄が、道に迷った弟を迎えに来たんだ。梅の花の力を借りて。
「いい話をありがとうございます、川口さん」
「そ、そうかい。そりゃ良かった」
川口の爺さんが照れる。恥ずかしいのか咳払いなどしながら次の予定について話す。
「清算をしてる間に処方箋が出るから、それを待ってから薬局に行こうかね」
「この病院の真正面に処方箋薬局がありましたっけね」
そんなふうに話しながら、二人で総合待合室を後にする。ふと、俺はもう一度窓の向こうを見た。
白梅の花びらが、雪のように風に舞い散る幻影が見えたような気がした。