第47話 合言葉は、一打ち二打ち三流れ

文字数 3,342文字


追っ手がいた時の用心だろうが、ウンザリするほどぐるぐる車を走らせて、智晴はようやくとあるホテルの地下駐車場に入って行った。最初に<風見鶏>から指示されていたホテルだ。

「さて、嫌でしょうけど、もう一度僕の背中におぶさってもらわないとね。大きな傷がなくて幸いだけど、足の裏の怪我を馬鹿にすると大変なことになりますから」

智晴の言うことはもっともだ。もっともなんだが……。

「うう……」

俺は呻いた。嫌だ。ホテルのほかの利用客にそんな姿を見られたくない。
苦悩する俺に、智晴は大げさな溜息をついてみせた。

「義兄さん。意地を張って自分で歩こうとしたら夏樹くんが泣いちゃうと思うんですけど、いいんですか? パパがそんな無理したら、きっとののかちゃんだって泣いちゃうだろうなぁ」

くぅっ、夏樹ばかりではなく、ののかまで引き合いに出すとは卑怯な!

「……分かったよ、おぶさればいいんだろう、おぶされば。落とすなよ! あ、夏樹くん、<はんぺん>を忘れちゃダメだよ?」

「うん。ちゃんとだっこしてる。はんぺんもママのこと心配してるよ? ねー?」

白い犬のぬいぐるみをぎゅっと抱きしめ、夏樹はぽつりと呟いた。

「ぼく、もっと大きかったらママをだっこしてあげられたのに。早くおおきくなりたい」

俺はひくひくと頬を引き攣らせた。こんな子供にまでだっこしてあげたいとか言われるなんて。

「こ、こんな怪我すぐに治るから。心配しなくても大丈夫だよ。さあ、さっきみたいにこのおじさんのベルトを持って。きっとパパと叔父さんが待ってるよ。行こう」

ぴくぴくと智晴の身体が震えている。笑っていやがるのだ。俺は奴の後頭部に軽く頭突きをかましてやった。

「痛い! 何するんですか、もう!」

「悪い。ちょっとぶつかった」

俺の頭も痛い。

やっぱりボボ・ブラジルのようにはいかないようだ。どうせなら、噛み付きブラッシーを見習った方が良かっただろうか。でも背中から落とされても困るし。

しょうがない。俺はジャンピング・ネックブリーカー・ドロップを智晴にお見舞いしてやる想像をするだけで我慢しておくことにした。

幸いというか、俺は他の宿泊客に醜態を見られずに済んだ。地下駐車場からフロアまで、直通のエレベーターだったのだ。だが、それはそれで空恐ろしく感じてしまう。どれだけお高い部屋を押さえておいたんだ、<風見鶏>。最初に伝えてきた部屋番号はダミーだったのか?

高速で上昇する箱の中で智晴にそれを訊ねると、分かったような分からないような答が返ってきた。

「その部屋にはデコイが仕掛けてあります。あくまでこのホテルが突き止められた時のためですがね。念には念を入れて、ということで」

そういえば昔『デコイの男』とかいうスパイ小説があったような。読んだことはないが……っていうのはともかく。あんまり詳しく聞くとそれはそれで何か怖い気がしたので、俺はそれ以上訊ねるのはやめにした。

高層階に着いたエレベーターから降りると、そこは別世界だった。最初のホテルで芙蓉たちが滞在していたフロアよりもまだ高級そうに思える。ふかふかしたカーペットは、傷ついた足の裏でもやさしく受け止めてくれそうだったが、背中から下ろせ下ろさないなどと押し問答しているよりも、早く部屋の中に入ってしまったほうが賢明だろう。

俺を背負って夏樹をズボンのベルトにつかまらせたまま、智晴は器用にドアフォンを鳴らした。と、中から謎の言葉が投げかけられた。

「一打ち二打ち三流れ」

何じゃ、そりゃ? 俺が首を傾げていると、智晴が応じた。

「山鹿流陣太鼓」

と、さっとドアが開く。もしかして、今のは合言葉か? 合言葉といえば、やっぱり「山」「川」だろう。「ストラスブール」「サールブール」というのもあったが、あれはフランスの誇る大怪盗のお話の中でのことだったか。

そんなつまらないことを考えていると、心配でたまらなかったような声が開いたドアから飛び出してきた。芙蓉だ。

「夏樹!」

「パパ!」

夏樹は智晴のベルトから手を離し、自分の父親の腰に飛びついた。親子感動の再会だ。

心あたたまる光景だが、もらい泣きなどしている心の余裕はない。俺は智晴に命じた。

「早く俺を下ろしやがれ!」

「はいはい」

気のない返事をしながら、智晴は俺を背負ったまま控えの間らしいその部屋を突っ切り、開いたままの次の間のドアをくぐった。そこは広いリビングになっており、葵が俺に向かって深く腰を折った。

「夏樹を追いかけてくれて、ありがとう」

「いや、まあ……」

俺はもごもごと答えた。あれは結局智晴の機転だったし、知らずに必死になって追いかけた己の女装姿が傍から見たらどんなふうに見えたかと思うと、なんだか消えてしまいたくなる。走ってる時は女(?)を忘れてたからな。かなり異様だったんじゃないだろうか。

「とりあえず、ここに」

葵が智晴にひとりがけのソファを示す。智晴は頷き、俺の身体をそっとそこに下ろしてくれた。両足をオットマンの上に揃えるように指示し、葵は用意してあったらしい洗面器やタオル、薬箱を持って俺の足元に跪いた。洗面器にはぬるま湯が入っているようだ。

「幸い大きな傷はないんですが、しばらくは歩くのに不自由するでしょうねぇ」

葵が俺の足の裏を洗うのを見ながら、智晴はおっとりと言う。

「そうですね。しっかり消毒しないと」

二人のやりとりを聞きながら、俺は智晴を睨んだ。その気が無くても睨んでしまったと思う。だって、治療のためとはいえ足の裏を触られると、痛いんだ。

「なあ、智晴。お前、どうしてあそこに現れたんだ? もしかしてお前が……」

<風見鶏>なのか?

まさかとは思うが。智晴は答えない。俺は奴のポーカーフェイスから何かを読み取ろうと、その顔を見つめ続けた。

と。

「ママ、やっぱりシンデレラみたい!」

父親と手を繋いで部屋に入ってきた夏樹が、弾んだ声を上げた。
俺はがくりと肩を落とし、片手で顔を覆う。

いいなぁ、子供は。素直にファンタジーできて。

きれいに洗われ、念入りに消毒され、やさしく薬を塗られる。フェルトに似たリント布とかいうので傷口を保護し、その上から包帯を巻かれ、一応の手当てが終わったようだ。

俺は情けない気分で、靴下のように見えてしまう両足の包帯を見た。大袈裟だとは思うが、体重がかかる分、確かに足の裏の傷というのは侮れない。

小さく息をつきながら、芙蓉の淹れてくれたハーブティーをすする。爽やかな味と香りで、結構美味い。

ぼーっと立ち上る湯気を眺めていた俺は、衝撃的なものに気づいてカップを取り落としそうになった。

白いカップのふちに、べっとりとついたローズピンクの口紅。

「げげっ!」

思わず声を上げてしまっ俺を、双子と智晴が驚いたように見やったが、見たと同時に理由に気づいたらしく、彼らは全員生温かい笑みを浮かべた。……本人たちにはそんなつもりは無かったのかもしれないが、俺にはそう見えたんだよっ!

すっかり忘れていた唇の違和感が蘇る。

「キモチワルイ……」

べっとりと張りつくような、そこだけ皮膚呼吸が出来ないような、不快な感覚。

俺の呟きに、芙蓉が首を傾げてみせた。
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「そう? 慣れれば気にはならないんだけど」

慣れたくなんかないわい! 俺は心の中で吼えた。今回のこの格好は、緊急避難的なものだ。こんな格好、二度も三度もするわけないだろ!

複雑なオトコ心など、まだ理解できるはずもない夏樹が、白い犬のぬいぐるみの<はんぺん>を抱っこしたままにこにこ顔で話しかけてくる。

「ママ、お城のぶとうかいに行く? かぼちゃって本当にばしゃになるのかな?」

きらきらした瞳を見ているとなぜか罪悪感を感じて仕方ないのだが、言わないわけにはいかなかった。

「もう魔法の時間は終わりだよ、夏樹くん。足が痛くてダンスなんか出来ないしね」

「おわりなの……?」

夏樹は寂しそうに俺の顔を見つめた。
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