第43話 はじめてのはいひーる。

文字数 3,423文字


夏樹を肩車してやると、顎を俺の頭にのせて大人しくしている。やっぱり男の子だな、ののかよりも少しだけ重い。ウィッグのことは分かっているのか、髪を引っ張ったりすることはなかった。

「……君の腕は認めるよ、芙蓉くん。しゃべらなければ、男だとはなかなか分からないだろと思う」

しゃべらなければ女に見える、とは言いたくなかった。この微妙な男心を分かって欲しい。

「だけど、目立ちすぎやしないか? もう少し地味にならないか?」

訴えた。ちょっと抵抗してみたかったのだ。
それなのに、芙蓉は軽く流してくれる。華やかな笑みを添えて。

「何言ってるんだよ。地味にしても背が高いから目立つのは同じだよ。それならこれくらい変身した方がかえっていい。男たちが遠巻きに指をくわえて眺めるくらいの美女に、ね」

美女はないだろう、美女は。よく見てみたらやっぱり男だと……分からないかもしれない。芙蓉の女装テク、恐るべし。

「だからさ、思いっきり目立つことが目くらましになるんだよ。あなたを知ってる誰も、今のあなたを見てあなただとは気づかないはずだ。それはあなたを付け狙っている相手にとっても、同じことなんだよ」

……やはり、無駄な抵抗だった。

敗北を噛み締めながら心の中で唸っていると、また俺の携帯から『犬のおまわりさん』が聞こえてきた。“風見鶏”からメールが届いたのだ。夏樹を肩車したまま、俺は内容を確認する。

『今から五分後に部屋を出ろ。エレベーターでいったん上階のレストランフロアに行き、出てくる客に紛れて下のエントランス・フロアに降りる。それからタクシーを拾って適当なところで一度降り、また別のタクシーを拾ってローズバット・ホテル1101号室へ』

「……それから、え? キーはドアの下の隙間に差し込んである? 無用心というか、もし取り損ねて内側に押し込んだらどうするんだよ──」

葵と芙蓉に聞かせるために声に出して読みながら、俺はぶつぶつ呟いた。

「また別のホテルの部屋を取ってくれてあるってことだね」

人差し指で、眼鏡のブリッジをくいと上に上げながら、葵が言う。

「多分、夏子の店にもあなたの部屋にも、今戻るのは危ないということなんだろう。両方とも、<怖いおじさんたち>に監視されていると考えるのが自然だ」

芙蓉の言葉に、俺も無言で頷いた。

どこの誰か知らないが、ご苦労なことだ。俺は本当に何も知らないというのに──。そう思い、深く息をつくと、肩の上で夏樹が身動ぎをする。不安がらせたかな?

「大丈夫だよ、夏樹くん。パパも葵叔父さんも、それからおじさんもいるから怖くないよね?」

夏樹の小さな手が、俺の額に触れる。

「僕、怖くないよ、ママ」

頭上から聞こえる子供の健気な声に、俺は言葉に詰まった。ママはやめてくれと言いたいが、これから親子連れを装うわけだし、しょうがない。しょうがないんだ!

「じゃ、じゃあちょっと降りようか。また後で肩車してあげるからね」

俺は顔面を引きつらせながら、なんとか優しい声を出すことに成功した。そんな俺の表情を、芙蓉と葵が面白そうに観察しているのが、ムカつく。

性悪双子どもめ!
……いつか絶対スンスン泣かす。そう俺は心に決めた。

決めただけだけど。 

まあ、こいつらをスンスン泣かすためには、まずここから無事に脱出しなければならないもんな。ムカつきは無視することにして、俺は肩から下ろした夏樹の頭を撫でた。それから、足元にぽつんと置いてある謎の(・・)物体に目を向ける。

「なあ、やっぱりこれを履かないとダメか……?」

つい、語尾が弱々しくしくなってしまう。

「当然。ストッキング穿いたんだから、もう同じことだろう?」

くっ……!

つるっと口にされた芙蓉の言葉が胸に突き刺さる。そう、俺はストッキングまで穿かされているのだ。なんだか足全体が重っ苦しいような、皮膚呼吸が妨げられるような、なんともいえない不快さがある。

「だけど、さ、俺、こんなもの履いたことないし、ちゃんと歩けないような気がするんだけど……」

「往生際が悪いね。葵、手伝って」

業を煮やしたらしい芙蓉の号令で、二人がかりでソファに座らせられ、片足を取られる。

「さあどうぞ、シンデレラ」

ひざまずいて靴をささげ持つ葵の軽口が、憎い。履かされた白いハイヒールは、確かに俺の足にぴったりだった。成す術もなく、もう片方も履かされてしまう。はぁ……。もう何度目になるか分からない溜息をつく。本当に恨むぞ“風見鶏”。

「こんなデカイ靴、どこから調達してきたんだろう」

悔し紛れに、俺はつい憎まれ口を叩いていた。

「何言ってるの。俺たちにはこういうサイズは貴重なんだよ。インポートものでしか探しようが無いんだから」

芙蓉には冷たくあしらわれてしまう。そりゃ、君にとっては貴重だろうさ。だけど俺にとっては全く意味がない。というか、うれしくもなんともない。

「さ、急いで。もう五分経つ。行くよ」

促され、俺は恐る恐る立ち上がった。とたんによろめく。くそっ、なんて歩きにくいんだ。それに足が痛い。女性たちは皆、こんな苦行に耐えているのか?

よろよろと、一歩踏み出すごとに俺が苦悩していると、すっ、と目の前に腕が差し出された。

「俺につかまって。支えてあげるから」

……あのー、そういうセリフは言われるんじゃなくて、言いたいんですけど。

くくぅ……!

「まあまあ、遠慮せずに」

芙蓉の瞳が悪戯っぽく笑っている。流れるようにさっと腕を取られると、やっとのことで真っ直ぐ立っていたのにとたんによろけてしまい、その肩にすがりつくような形になる。

「げっ、よせよ」

腰を抱かれて俺はもがいた。だが、いかんせん、生まれて初めての(当たり前だ!)ハイヒール。これでは逃げることが出来ない。後ろでは葵がくすくす笑っている。む、むむむむむ……。

こめかみにタコマークを三つほど作って唸っていると、夏樹が俺の服の裾をそっとにぎった。まるで、転ばないかと心配しているように。

「ママ、あんよが痛いの?」

つぶらな瞳で見上げられたら、もう降参するしかない。

「だ、大丈夫だよ、夏樹く……いや、夏樹。ちょっと上手く歩けないだけなんだ。そのうち慣れるから、心配しないで、な?」

いや、こんなもんに慣れたくないから。心の中で、俺は自分に突っ込んでいた。

──ののか、ごめん。パパ、いつの間にかママになっちゃったよ……。

そういえば、『パパの歌』ってのがあったっけ。うつろな気持ちで俺は思い出す。<昼間のパパはちょっと違う>とかいう歌詞だった。そして、なぜか『ママの歌』という替え歌も思い出した。昔、聞いた時は大笑いしたなぁ。<二丁目のママは男だぜ~>とかいったっけか……。

新宿二丁目のママの皆さん、ごめんなさい。ママになるのって、大変なんですね。

……ああ、俺はなんだか混乱してきようだ。ううう、助けて、ドラ○もん!

俺はのび太ではないので、どらえもんはやっぱり助けには来てくれなかった。

ああ、今ほど<どこでもドア>が欲しいと思ったことはない。<どこでもドア>さえあれば、こんな格好しなくても、すぐ目的の場所に行けるじゃないか!

だけど、クローゼットを開けたら知らない国だったという『ナルニア国物語』はパス。俺はアナザーワールドに行きたいわけではない。今の、この現実の世界で生きていかなければならないのだから。

でも、ちょっと行ってみたいかな、ナルニアへ。ナルニアでなくてもいい、どこか遠いところへ。ああ、遠くへ行きたい。そうすればこんな生き恥をさらすような思いをしなくて済むのに……!

……レストラン・フロアで、俺は下を向いていた。

「大丈夫か?」

芙蓉が男らしい声で訊ねてくる。なんとも優しそうな、思いやりにあふれた声だ。

「ママ、だいじょうぶ?」

夏樹が俺のスカートの裾を握る。

細いヒールの高い靴はただでさえ歩きにくいのに、フロアのふさふさ豪華な絨毯がさらにそれを難しくさせる。

結果、俺は芙蓉に支えられなければ歩けないという醜態をさらす羽目になっていた。恥ずかしくて顔を上げられない。

なんでこんな愉快なことになってしまったんだ。くぅっ、“風見鶏”め……。
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